毛利討伐の軍議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:56 UTC 版)
天正5年10月、織田信長が秀吉に中国攻めを命じ出陣させた。秀吉はまず播磨に下向し、別所氏らの協力を得て1ヶ月足らずで播磨の大半の豪族を掌握した。秀吉は、背後の脅威である但馬や毛利の勢力が浸透している福原城(佐用郡)、上月城(佐用郡)を武力平定し、戦果報告に帰国した。 改めて秀吉は播磨入りすると加古川城に国内諸城主を集め軍議を行った(加古川評定)。三木城主の別所長治の代理で出席したのは、毛利びいきで名門意識の強い叔父の別所吉親であった。吉親は下層から立身した秀吉を見下すところがあり、評定で秀吉の問いに応じて別所氏の家系から代々の軍功を語る長談義に及び、秀吉の不興を買う事になった。吉親は憤懣を抱いたまま三木城へ帰ると長治を説き伏せ、信長からの離反を決意させた。この決裂により、翌天正6年から8年(1578年 - 1580年)にかけて三木合戦が始まり、三木城及び別所氏一族の諸城を秀吉が攻める事となる(野口城、神吉城、志方城、高砂城、端谷城、御着城など)。天正8年(1580年)に秀吉は諸城を陥落させた後に三木城を落城させ、長治は城兵の命を引き換えに切腹、吉親は徹底抗戦しようとして城兵に見限られ殺された。
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