毛利輝元領とは? わかりやすく解説

毛利輝元領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:49 UTC 版)

中国国分」の記事における「毛利輝元領」の解説

毛利輝元は、安芸国備後国周防国長門国石見国出雲国隠岐国加え備中伯耆両国それぞれ西部領有する太守となった中国路における所領の総石高112万石(ほかに四国九州安国寺小早川領あり)であり、大名領としては徳川家康駿府119万石江戸256万石)に次いで上杉氏会津120万石にほぼ等しく太閤蔵入地(約222万石)の半分強にも達す大身となった天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給され領知朱印状領知目録安芸 周防 長門 石出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」 内訳2万石 寺社領 7千石 京進方(太閤蔵入地) 66千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万無役 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万無役 隠岐国 羽柴吉川侍従 10万石 輝元国之台所入 83千石 京都台所入 734千石 軍役 都合112万石 なお、みずからも豊臣秀長にしたがって一軍率いた九州征伐秀吉九州平定)ののち、瀬戸内海制海権が完全に豊臣政権服したため、経済的にみて、水上交通における流通掌握が各大名にとって以前比較して格段に重要度増した毛利輝元も、九州征伐終了した天正15年1587年以降本拠地山間部立地する安芸国吉田郡山城広島県安芸高田市)より、水上交通適した太田川河口広島広島県広島市)に遷している。新し居城となった広島城広島市中区)は、天正19年1591年)に完成したまた、小早川隆景備後国三原要害を、毛利一門の東の拠点として整備している。 毛利領のうち、山陰道属す諸国は輝元の叔父吉川元春総管するところであったその三男で、夭折した兄の後を継いだ吉川広家は、天正19年3月13日グレゴリウス暦1591年5月6日)付で出雲国の東半(意宇郡能義郡島根郡)、隠岐国伯耆国の西半(汗入郡会見郡日野郡八橋郡一部)、および安芸国一部総高11万石毛利輝元よりあてがわれた。広家は、同年6月尼子氏のかつての居城で、要害無比堅固な城として知られ出雲月山富田城島根県安来市)にうつった。しかし、月山富田城もやはり山間部位置していたため、広家は新し本拠として、水陸交通至便伯耆国会見郡米子鳥取県米子市)の地を選び米子山城の修築取りかかった山頂には本丸北側中腹部二ノ丸、その下に三ノ丸の各郭が設けられ近世城郭となし、尼子氏時代主郭として機能していた飯山は出丸として活用された。

※この「毛利輝元領」の解説は、「中国国分」の解説の一部です。
「毛利輝元領」を含む「中国国分」の記事については、「中国国分」の概要を参照ください。

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