毛利輝元領
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毛利輝元は、安芸国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、隠岐国に加え、備中・伯耆両国のそれぞれ西部を領有する太守となった。中国路における所領の総石高は112万石(ほかに四国と九州の安国寺・小早川領あり)であり、大名領としては徳川家康(駿府119万石→江戸256万石)に次いで上杉氏の会津120万石にほぼ等しく、太閤蔵入地(約222万石)の半分強にも達する大身となった。 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録 「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」 内訳は 2万石 寺社領 7千石 京進方(太閤蔵入地) 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役 隠岐国 羽柴吉川侍従 10万石 輝元国之台所入 8万3千石 京都台所入 73万4千石 軍役 都合112万石 なお、みずからも豊臣秀長にしたがって一軍を率いた九州征伐(秀吉の九州平定)ののち、瀬戸内海の制海権が完全に豊臣政権に服したため、経済的にみて、水上交通における流通掌握が各大名にとって以前に比較して格段に重要度を増した。毛利輝元も、九州征伐の終了した天正15年(1587年)以降、本拠地を山間部に立地する安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市)より、水上交通に適した太田川河口の広島(広島県広島市)に遷している。新しい居城となった広島城(広島市中区)は、天正19年(1591年)に完成した。また、小早川隆景は備後国の三原要害を、毛利一門の東の拠点として整備している。 毛利領のうち、山陰道に属する諸国は輝元の叔父吉川元春の総管するところであった。その三男で、夭折した兄の後を継いだ吉川広家は、天正19年3月13日(グレゴリウス暦1591年5月6日)付で出雲国の東半(意宇郡・能義郡・島根郡)、隠岐国、伯耆国の西半(汗入郡、会見郡、日野郡、八橋郡の一部)、および安芸国の一部の総高11万石を毛利輝元よりあてがわれた。広家は、同年6月、尼子氏のかつての居城で、要害無比の堅固な城として知られた出雲の月山富田城(島根県安来市)にうつった。しかし、月山富田城もやはり山間部に位置していたため、広家は新しい本拠として、水陸の交通に至便な伯耆国会見郡米子(鳥取県米子市)の地を選び、米子湊山城の修築に取りかかった。山頂には本丸、北側中腹部に二ノ丸、その下に三ノ丸の各郭が設けられて近世城郭となし、尼子氏時代に主郭として機能していた飯山は出丸として活用された。
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