毛利軍の雲州侵攻とは? わかりやすく解説

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毛利軍の雲州侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 19:15 UTC 版)

布部山の戦い」の記事における「毛利軍の雲州侵攻」の解説

永禄12年10月18日1569年11月26日)、吉川元春小早川隆景毛利軍は、九州から陣を撤収して長府帰着すると、10月25日12月3日)頃に大内家再興軍の反乱鎮圧する。輝弘は富海自刃し、大内家再興戦いは僅か半月足らず終結した大内輝弘の乱)。反乱鎮圧した毛利軍は、12月23日1570年1月29日)に長府にあった陣を引き払い居城である吉田郡山城帰還した永禄13年1月6日1570年2月10日)、本国帰還した毛利輝元吉川元春小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より出陣する。その総数は約26,000とされる大軍であった。輝元を総大将とし、毛利譜代の衆6,000がこれに従い、元春は石見勢を、隆景は備後勢を、宍戸隆家備中勢を統率した。そのほか水軍200艘がこれに従った毛利軍第一に優先したのは、尼子再興軍により包囲されている月山富田城を救うことであったこの頃月山富田城内では尼子再興軍の攻撃を受け、馬来河本湯原氏らが投降するなど危険な状態となっていた。また城内兵糧欠乏していたため、早期尼子再興軍の包囲網突破し城内兵糧補給する必要があった。 毛利軍はまず、児玉就久らに200艘の船を率いさせて瀬戸内海から石見国温泉津出港させると、この地で石見毛利方の国人招集し尼子再興軍を牽制するため出雲杵築浦(稲佐の浜)へ向かわせた。次に輝元ら率い本隊陸路により月山富田城目指し北上して石見国山南現在の島根県邑智郡美郷町村之郷)に入ると、ここで兵を招集し部隊増強した毛利軍ここから進路北西進み出国へ入国すると、同月16日2月20日)には赤穴(現在の島根県飯石郡飯南町)に着陣する。赤穴城主・赤穴久清迎え入れられ毛利軍進路北へ変えて進軍し同月28日3月4日)には中郡現在の島根県雲南市大原郡)を越え、翌2月7日3月13日)には三沢現在の島根県飯石郡奥出雲町仁多)・横田(同町横田)へ軍を進める。こうして毛利軍月山富田城へ向け着実に陣を進めていき、その途上にある尼子方の諸城攻略されていった

※この「毛利軍の雲州侵攻」の解説は、「布部山の戦い」の解説の一部です。
「毛利軍の雲州侵攻」を含む「布部山の戦い」の記事については、「布部山の戦い」の概要を参照ください。

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