毛利軍の雲州侵攻
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永禄12年10月18日(1569年11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると、10月25日(12月3日)頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大内輝弘の乱)。反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日(1570年1月29日)に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還した。 永禄13年1月6日(1570年2月10日)、本国に帰還した毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より出陣する。その総数は約26,000とされる大軍であった。輝元を総大将とし、毛利譜代の衆6,000がこれに従い、元春は石見勢を、隆景は備後勢を、宍戸隆家は備中勢を統率した。そのほか水軍200艘がこれに従った。毛利軍が第一に優先したのは、尼子再興軍により包囲されている月山富田城を救うことであった。この頃、月山富田城内では尼子再興軍の攻撃を受け、馬来、河本、湯原氏らが投降するなど危険な状態となっていた。また城内の兵糧も欠乏していたため、早期に尼子再興軍の包囲網を突破し城内へ兵糧を補給する必要があった。 毛利軍はまず、児玉就久らに200艘の船を率いさせて瀬戸内海から石見国の温泉津へ出港させると、この地で石見の毛利方の国人を招集し、尼子再興軍を牽制するため出雲の杵築浦(稲佐の浜)へ向かわせた。次に輝元ら率いる本隊は陸路により月山富田城を目指し、北上して石見国の山南(現在の島根県邑智郡美郷町村之郷)に入ると、ここで兵を招集して部隊を増強した。毛利軍はここから進路を北西に進み出雲国へ入国すると、同月16日(2月20日)には赤穴(現在の島根県飯石郡飯南町)に着陣する。赤穴城主・赤穴久清に迎え入れられた毛利軍は進路を北へ変えて進軍し、同月28日(3月4日)には中郡(現在の島根県雲南市大原郡)を越え、翌2月7日(3月13日)には三沢(現在の島根県飯石郡奥出雲町仁多)・横田(同町横田)へ軍を進める。こうして毛利軍は月山富田城へ向け着実に陣を進めていき、その途上にある尼子方の諸城は攻略されていった。
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