内藤元栄
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 享禄3年(1530年) |
死没 | 元和8年4月25日(1622年6月4日) |
別名 | 通称:孫十郎→与三右衛門 |
官位 | 河内守 |
主君 | 毛利元就→輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤姓安芸内藤氏 |
父母 | 父:内藤元方 |
兄弟 | 元栄、小倉元廉、武安教織 |
妻 | 赤川元保の娘 |
子 | 元勝、女(粟屋元信室)、女(内藤広泰室)、勝次、就正、女(南方元俊室)、就貞、女(内藤元次室)、女(浅屋元俊室)、女(飯田就重室) |
内藤 元栄(ないとう もとひで)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。安芸国の戦国大名である毛利氏の家臣。実務官僚として重用され、毛利元就、輝元、秀就に仕えた。
生涯
享禄3年(1530年)、安芸国中郡衆である安芸内藤氏の一族であった内藤元方の子として生まれる。
元栄が生まれたのは、南北朝時代の安芸内藤氏当主である内藤泰廉の子・廉行が分家してできた庶子家であり、元栄と同じく毛利氏に仕えた内藤元泰は同族である。
天正13年(1585年)の四国攻めでは輝元の命を受けて、伊予国へ出陣する。
天正15年(1587年)から天正18年(1590年)にかけて毛利氏領国で行われた惣国検地では、穂井田元清、福原広俊、渡辺長、安国寺恵瓊、佐世元嘉、二宮就辰、林就長と共に打渡奉行を務めた。
慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、26番目に「内藤河内守」と署名している[1]。
慶長17年(1612年)1月3日、嫡男の元勝に知行を譲ることを輝元と秀就に許可された。
元和8年(1622年)4月25日に93歳で死去した。元栄の嫡男である元勝が元栄の跡を継ぎ、後に元勝の子である内藤就久は、嫡子のなかった本家の内藤広泰の養子となった。
脚注
注釈
出典
- ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。
参考文献
- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。
NCID BN01905560。全国書誌番号:
84027305。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 秋山伸隆『戦国大名毛利氏の研究』吉川弘文館、1998年。
- 光成準治『毛利輝元 ―西国の儀任せ置かるの由候―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。 ISBN 462307689X。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻28「内藤与三右衛門」
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