児玉就光とは? わかりやすく解説

児玉就光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 04:56 UTC 版)

 
児玉就光
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正18年4月12日1590年5月15日
別名 通称:左衛門太郎、四郎兵衛尉
官位 豊前守
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 児玉氏
父母 父:児玉就兼
兄弟 就光、就安、就吉、
女(内藤平右衛門室)、女(平佐就之室)
元村、元房、女(内藤河内守室)、
女(長井元為室)、女(粟屋志摩守室)、
女(八幡原元直室)、女(桂因幡守室)、
女(児玉又兵衛室)、元理
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児玉 就光(こだま なりみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。安芸国児玉氏の一族。経行系児玉氏の嫡流。父は児玉就兼で、子に元村、元房、元理。弟には児玉就安がいる。官途は父と同じ豊前守。

生涯

毛利氏の家臣である児玉就兼の子として生まれ、毛利元就隆元輝元の三代に仕えた。

天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い、天文11年(1542年)の月山富田城の戦いに参加。毛利元就大内氏からの独立した後は、天文23年(1554年)に厳島の戦いの前哨戦である、野間隆実が籠もる矢野城攻略や折敷畑の戦いにも出陣した。防長経略後の永禄9年(1569年)には周防国で起きた一揆の鎮圧にも出陣した。

また、就光は内政にも秀でており、毛利氏奉行制度の中で政務を担当する番衆の1人に任ぜられている。

天正18年(1590年4月12日に死去。

参考文献





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