誕生、人質時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:54 UTC 版)
大永3年(1523年)、毛利元就の嫡男として安芸多治比猿掛城で生まれた。 天文6年(1537年)12月1日、当時元就が従属していた周防の戦国大名の大内義隆のもとに人質として送られる。同年中に主君・大内義隆を烏帽子親として元服し、義隆から一字を賜り「隆元」と名乗ることが許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられた。嫡男を人質としたことで、毛利氏は大内氏から絶大な信頼を置かれることになる。当時の隆元の優雅な暮らしぶりは『毛利隆元公山口逗留日記』にも書かれている。 また、山口滞在中の隆元は大内家重臣の内藤興盛(長門守護代、のちに隆元の岳父となる)や江良房栄、人質仲間の天野隆綱(興定の子)などとも親交を結んだ。特に同年代であった陶隆房(後の陶晴賢)や弘中隆包(隆兼)らとの親交は深かった。 天文9年(1540年)、大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。隆元は元就と共に月山富田城攻めに従軍し、その後の撤退戦(七騎落ち)などの修羅場を経験した。またこの際の蓮池縄手の戦いで、隆元は初めて家臣の児玉就光に感状を与えている。
※この「誕生、人質時代」の解説は、「毛利隆元」の解説の一部です。
「誕生、人質時代」を含む「毛利隆元」の記事については、「毛利隆元」の概要を参照ください。
- 誕生、人質時代のページへのリンク