青山奥三番川
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三番川・四番川・五番川の一円は、かつて奥当別と呼ばれていた。1954年(昭和29年)に奥当別の南部を「三番川」、北部を「四番川」と称する2部落に編成した。 三番川部落の開拓は1905年(明治38年)ころ、芋田農場などが設置されて小作人を導入したことで始まった。しかし地味が悪いうえに交通も不便とあって、定着する者はなく、耕地は荒廃していった。大正から昭和にかけては、2〜3戸の農家が出入りして馬鈴薯を育てていた。 太平洋戦争終結後には緊急開拓指定地区となり、1946年(昭和21年)初冬に広島県からの開拓移民先遣隊が現地入りして、農場跡地の小屋に仮住まいしながら本隊の到着を待った。また同年には、樺太から引き揚げてイトムカ鉱山で働いていた菊地や岡崎らが、滝川から四番川を経て移住し、開墾を始めた。 1950年(昭和25年)秋、洪水が発生して床上浸水の被害が出たほか、作物にも打撃を受けた。 1952年(昭和27年)春、富良野町・秋田県・新潟県から各団体移民があって部落は42戸まで急増し、すでに閉校していた三番川小学校が復活する運びとなった。三番川部落の最盛期は1954年(昭和29年)で、開拓当初は1戸あたり約40〜50haを開墾していたものが、この年の耕地区角割は1戸あたり9〜10haと定められた。 1956年(昭和31年)に青山ダムが築造され、水没地域にあった農家は転出したものの、道路の改修や電気・電話の敷設など、部落が受けた恩恵も大きかった。 1958年(昭和33年)、北海道大学の矢島教授の経営診断により酪農が勧められ、1戸平均2〜3頭の乳牛を飼い始めたが、冬期間は豪雪のせいで二番川までの輸送もしばしば滞るため、3〜4年で終わりを迎えた。また、寒冷地に適した食用ユリの栽培はいったん成功したものの、2〜3年で価格が暴落してしまった。さらに水稲栽培に活路を求めた者も、1969年(昭和44年)の冷害で大打撃をこうむった。 相次ぐ作物転換で全農家は莫大な借金を背負い、もはや将来のめども立たなくなったため、部落を挙げて離農することが決まった。1971年(昭和46年)に、全農家が三番川を去った。
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