青山奥三番川とは? わかりやすく解説

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青山奥三番川

読み方:アオヤマオクサンバンガワ(aoyamaokusanbangawa)

所在 北海道石狩郡当別町

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

〒061-0252  北海道石狩郡当別町青山奥三番川

青山奥三番川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:57 UTC 版)

青山 (当別町)」の記事における「青山奥三番川」の解説

三番川・四番川五番川の一円は、かつて奥当別呼ばれていた。1954年昭和29年)に奥当別南部を「三番川」、北部を「四番川」と称する2部落に編成した三番川部落の開拓1905年明治38年)ころ、芋田農場などが設置され小作人導入したことで始まった。しかし地味が悪いうえに交通も不便とあって定着する者はなく、耕地荒廃していった。大正から昭和にかけては、2〜3戸の農家出入りして馬鈴薯育てていた。 太平洋戦争終結後には緊急開拓指定地区となり、1946年昭和21年初冬広島県からの開拓移民先遣隊現地入りして、農場跡地小屋仮住まいしながら本隊到着待った。また同年には、樺太から引き揚げイトムカ鉱山働いていた菊地岡崎らが、滝川から四番川経て移住し開墾始めた1950年昭和25年)秋、洪水発生して床上浸水被害出たほか、作物にも打撃受けた1952年昭和27年)春、富良野町秋田県新潟県から各団体移民があって部落42戸まで急増し、すでに閉校していた三番小学校復活する運びとなった三番川部落の最盛期1954年昭和29年)で、開拓当初は1戸あたり約40〜50haを開墾していたものが、この年耕地区角割は1戸あたり9〜10haと定められた。 1956年昭和31年)に青山ダム築造され、水没地域にあった農家転出したものの、道路の改修電気電話敷設など、部落受けた恩恵大きかった1958年昭和33年)、北海道大学矢島教授経営診断により酪農勧められ、1戸平均2〜3頭の乳牛飼い始めたが、冬期間は豪雪のせいで二番川までの輸送もしばしば滞るため、3〜4年終わり迎えたまた、寒冷地適した食用ユリ栽培はいったん成功したものの、2〜3年価格暴落してしまった。さらに水稲栽培活路求めた者も、1969年昭和44年)の冷害大打撃こうむった相次ぐ作物転換全農家は莫大な借金背負い、もはや将来のめども立たなくなったため、部落挙げて離農することが決まった1971年昭和46年)に、全農家が三番川を去った

※この「青山奥三番川」の解説は、「青山 (当別町)」の解説の一部です。
「青山奥三番川」を含む「青山 (当別町)」の記事については、「青山 (当別町)」の概要を参照ください。

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