青山奥四番川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:57 UTC 版)
1906年(明治39年)、豊前国から美唄屯田に移住していた小倉兵次郎は、当別太に移住していた同郷の小倉清太郎と小倉繁次郎を誘い、四番川部落の開拓を始めた。同年には彼らのほかに4戸が入植しており、合計で7戸となっている。 1908年(明治41年)、大袋と浜益村を結ぶ道路が開削されたため、小倉兵次郎は農耕のかたわら商店を開設して浜益から仕入れた品物を販売した。同年には部落の戸数が22戸に達し、子どもの人数も増えたので、仮校舎を建てて教育を始めた。この部落立の私塾が、後の四番川小学校の原型である。 1926年(大正15年)に浜益への隧道が完成し、交通の利便性が増した。
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