青山学院院長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/16 06:31 UTC 版)
東京英和学校が青山学院と改称される。石坂は引き続き青山学院の教鞭をとり、中等科と高等科の科長を勤める。1921年(大正10年)、急死した高木壬太郎院長の後を継いで、第5代青山学院院長に就任する。 1923年の関東大震災の時は、青山学院のレンガ建ての建築物や神学部時計台が被害を受ける。当時の中学部長であった阿部義宗(後の第6代院長)とともに被災者の救済活動を行った。石坂はアメリカに渡りメソジスト監督教会による募金活動をアピールした。その結果アメリカから送られた募金により、青山学院の復興と再建を成し遂げる。再建を契機に、前院長高木壬太郎が計画していた青山学院と青山女学院の合同計画を実現させる。 1933年(昭和8年)に院長を引退して、阿部義宗に院長を引継ぎ、本人は名誉院長となった。翌1934年(昭和9年)74歳で死去する。
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