青山学院教授
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1904年(明治37年)6月 麻布教会に転任し、第7代牧師となる。青山学院神学部教授の兼任は継続 。 1906年(明治39年)10月 ヴィクトリア大学神学部より日本人初の名誉神学博士号を授与された。 1907年(明治40年) 4月 麻布教会牧師を退任。青山学院専任教授となり、新約神学を講る。 5月 『護教』3代目主筆を辞任。 1911年(明治44年) 10月 メソジスト教会機関誌『護教』の5代目主筆となる。 11月 『基督教大辞典』を刊行。 1912年(明治45年)第2次西園寺内閣の時に、床次竹二郎内務事務官の主催により、三教合同が開催された。高木、柏木義円、内村鑑三、明石繁太郎らはこの会合に反対した。 1913年(大正2年)5月 小方仙之助の後をついで青山学院第4代目院長に就任する。 1914年(大正3年)4月 『護教』の主筆を退任。 1920年(大正9年) 1月1日 『護教』が『教界時報』と改題され委員長に就任。 青山学院大学設置計画を発表。キリスト教主義大学の設立事業の実現に向けて全力を傾ける。 1921年(大正10年)1月27日 病気のため霊岸島病院で召天。
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