青山家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 17:01 UTC 版)
丹波亀山藩主だった青山忠朝が5万石で入れ替わる形で篠山藩主となった。その後、藩主家を青山家として明治時代まで続いた。忠朝は寺社奉行や大阪城代を勤めた。 第2代藩主・青山忠高は儒学者を登用して藩校・振徳堂を建設し、藩士の教育と文化発展に努めた。一方、不作などにより百姓一揆も発生した。第4代藩主・青山忠裕は藩校を増築した。なお、忠裕は奏者番、寺社奉行、京都所司代、大阪城代を歴任し、さらに老中を三十年間も勤めた功績から、文政10年(1827年)5月7日に遠江に1万石を加増された。第5代藩主・青山忠良もまた幕末期の混乱の中で寺社奉行や老中を務めたが、阿部正弘追放の企てに失敗し失脚した。 この当時の藩政では、藩内の産業は稲作以外に見るべきものがなく、そのために藩財政も領民も困窮し、すぐ近くに京や大阪といった都市圏がある篠山は、ゆえに領民の中には出稼ぎに出る者、そのまま都市民となり戻らない者も少なくなかった。青山氏はこれによる人口流出(耕作労働力の低下)を恐れて出稼ぎを制限し、さらに財政再建のために徴税の強化や新税の制定を頻繁に行ったことなどから、明和8年(1771年)、万延元年(1860年)、明治2年(1869年)には大規模な一揆が起こっている。この他にも小規模な一揆、打ちこわしを合わせると、青山氏時代の一揆は20件を越えると言われている。なお、一揆に対しては藩が一揆側の要求を呑むことも少なくなかったと言われている。第4代藩主の忠裕は市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘などの摂津国方面の酒造業の盛んな地に杜氏として出稼ぎに行く(土地を離れる)ことを認めた。 忠裕はまた殖産興業策として、京焼の陶工である欽古堂亀祐を招いて窯を開かせている。篠山藩の藩財政が苦しかったことを示すものとして、最末期の明治3年(1870年)12月末における藩の借財は、28万1329両であったと言われている。 最後の第6代藩主・青山忠敏の時代である慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、歴代藩主は幕閣であったが藩内は佐幕派、新政府派に分かれて対立した。しかし、西園寺公望率いる新政府軍が篠山に侵攻すると、新政府に恭順した。忠敏は明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となった。同年に遠江国にあった藩領が、静岡藩に移された徳川家達の領土として組み込まれたため、代替分として丹波・但馬国内で1万石を与えられている。 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により篠山藩は廃藩となった。その後、篠山藩は篠山県を経て同年11月2日に豊岡県に編入され、更に明治9年(1876年)8月21日には兵庫県に編入された。 なお、藩庁であった篠山城の現存建築遺構として、城門が市内の金照寺山門として移築され現存している。
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