尼子氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 22:40 UTC 版)
帰国した義興がもっとも力を注いだのは在京中に離反の姿勢を見せた安芸国の武田元繁・光和父子や友田興藤との戦いであった。だが、大永3年(1523年)に尼子経久が安芸進出を目論み、武田・友田とも通じたことから、尼子氏の大内領への侵攻が本格化していく。石見の波志浦は尼子軍に攻略され、安芸では大内家に従属していた毛利氏が尼子方に寝返った。尼子経久は毛利家当主・毛利幸松丸の後見役である毛利元就を利用して、大内氏の安芸経営の拠点である安芸西条の鏡山城を攻略(鏡山城の戦い)させるなどして、一時は大内氏を圧倒した。これに対して義興は安芸・石見に出兵して連年のように尼子氏と戦うが、思うように戦果が上がらなかった。しかし大永4年(1524年)に安芸厳島にあった友田氏の拠点桜尾城を攻略し、武田氏の拠点佐東銀山城の攻防戦で尼子軍を撃破し、大永5年(1525年)には毛利氏を継いだ毛利元就が再び帰参したため、安芸における勢力をやや回復する。また、尼子氏も山陰地方東部を支配しかつ備後国の守護でもあった山名氏との戦いもあったため、石見における勢力も義興は奪い返した。さらに北九州の少弐資元らとも戦い、有利に戦況を進めている。やがて、備後国は北から進出した尼子経久と西から義興の命で大内軍を率いる陶興房に侵攻を受けて守護の山名誠豊の支配が衰え、同国は尼子氏と大内氏の争奪戦の舞台となった。興房は大永7年(1527年)に細沢山の戦いで尼子経久を破り、山名誠豊・山内直通らとともに尼子氏に対抗した。 享禄元年(1528年)7月、安芸門山城攻めの陣中で病に倒れ、山口に帰還直後の12月20日に死去した。享年52。跡を嫡男の義隆が継いだ。
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