尼子氏の備中侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 07:48 UTC 版)
天文8年(1539年)、出雲国の尼子晴久が備中国に侵攻し、庄為資らが籠る備中松山城を攻撃した。これに対し、細川晴元は阿波守護である細川持隆の軍勢を備中国へ渡海させたが大敗している。この戦いにより、庄為資は国外に逃亡、石川家久らを初めとする備中国人達は尼子氏に帰順した。 しかし、天文9年(1540年)に吉田郡山城の戦いが始まって尼子軍の多くが備中から撤退すると、庄為資は再び備中に入国し、尼子氏に帰順していた石川家久父子を討ち取った。これにより備中石川氏の惣領家は途絶えたと考えられるが、庶流である忍山城の石川久忠(源三)や立石城の石川久智らがその後も勢力を備中南東部に残していた。
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