尼子氏の勢力拡大とは? わかりやすく解説

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尼子氏の勢力拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 17:16 UTC 版)

尼子経久」の記事における「尼子氏の勢力拡大」の解説

永正8年1511年)、西国大々名である周防山口大内氏当主大内義興上洛この上洛に経久は従い京都では船岡山合戦参加したとされているが、詳細不明永正9年1512年)、備後国人の大場山城主・古志為信の大内氏への反乱支援している。この時期次男尼子国久細川高国から、3男の塩冶興久大内義興から偏諱受けており、両者との関係を親密にしようとしていたもの思われる永正10年1513年)、経久は弟の久幸に伯耆国南条宗勝攻めさせる一方嫡男尼子政久叛旗翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けた。しかしその最中、政久は矢に当たって命を落とした永正14年1517年)、大内義興石見守就任納得出来なかった前石守護山名氏手を結び石見国内の大内方の城を攻めている。ただし、この時の大内氏との戦い小競り合い程度のものであり、永正15年1518年)に本国周防国帰還する事になる大内義興在京中より、経久が大内領の侵略行ってたとする見方正確なものではない。 また、同年備中国北部に力を持つ新見氏手を結び三村氏攻撃している。 永正17年1520年)、経久は出雲国西部支配をようやく確立することになる。だが、一方で備後国山内氏安芸国の宍戸氏など国境接す国人領主達との対立を生み、特に山内氏出雲国内への影響力無視しえないものであった。そのため、備後安芸への進出出雲の国支配安定化の必要上欠かせないものであり、それは同地域に利害関係を持つ大内氏との軍事的衝突をも意味していた。 大永元年1521年以降尼子氏石見国侵入した安芸国へも手を伸ばし大永3年1523年)には重臣亀井秀綱の命で傘下安芸国人である毛利氏に、大内氏安芸経営拠点である鏡山城攻めさせた。毛利家当主毛利幸松丸叔父である元就策略使い城主蔵田房信叔父蔵田直信を寝返らせ、城主・房信が自害し鏡山城落城した。後に直信も自害させられた(鏡山城の戦い)。 大永4年1524年)、経久は軍勢率い西伯耆侵攻し南条宗勝破り更に守護山名澄之敗走させ、一晩にて西伯耆手中に収めた。敗北した伯耆国人の多く因幡但馬へと逃亡し南条宗勝但馬山名氏頼った。 しかし、同年には尼子であった安芸武田氏友田氏が大内氏敗北し毛利元就異母弟である相合元綱との内紛の後の大永5年1525年)に尼子との関係を解消して大内氏所属変えた。これらにより、尼子氏に傾いていた安芸国内の勢力バランスが変わることになった毛利氏離反は、毛利氏後継争い尼子家臣・亀井秀綱介入したことが大きな原因とされているが、実際には経久の強い意向働いていたと思われる大永6年1526年)、伯耆備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏大内氏山名氏包囲される形で窮地に立たされる。翌大永7年1527年)、経久は自ら備後国へと兵を出兵させるも細沢山の戦いにて陶興房敗走し尼子であった備後国人の大半大内氏へと寝返った

※この「尼子氏の勢力拡大」の解説は、「尼子経久」の解説の一部です。
「尼子氏の勢力拡大」を含む「尼子経久」の記事については、「尼子経久」の概要を参照ください。

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