山陰・山陽八ヶ国の領有とは? わかりやすく解説

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山陰・山陽八ヶ国の領有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:32 UTC 版)

尼子氏」の記事における「山陰・山陽八ヶ国の領有」の解説

天文6年1537年)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代尼子氏戦国大名として最盛期迎え山陰山陽八ヶ国(出雲隠岐伯耆因幡美作備前備中備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。 天文年間にかけて、尼子氏はほぼ備中平定し備前から美作播磨への勢力拡大図っている。天文8年1539年)には、上洛構え見せていた晴久だが、いわゆる大内包囲網瓦解し西から圧迫強まったこともあり、出雲撤収している。 天文9年1540年)、3軍勢安芸侵攻し大内氏方の安芸有力国人である毛利氏本拠地吉田郡山城攻めるが、毛利氏への大内義隆援軍陶隆房活躍などもあって吉田郡山城攻め切れず、翌天文10年1541年)には兵を引いてしまう(吉田郡山城の戦い)。 天文11年1542年)、今度大内軍が大内義隆総大将として、毛利氏安芸周防石見の国人衆も集め2万の兵で出雲出兵してくる。この遠征1年4ヶ月続いて月山富田城攻囲されるが、尼子氏所領奥地侵入した大内軍の補給線防衛線をゲリラ戦術分断しながら、大内氏配下三刀屋久扶三沢為清本城常光吉川興経国人衆を寝返らせて大内軍を弱体化させ、翌天文12年1543年敗走させた(第1次月山富田城の戦い)。 天文23年1554年)、惣領である晴久の元から政治的に距離を置くようになっていた「新宮党」(出雲にも多く直轄地を持つ独立集団化していた)を率い尼子経久次男国久、誠久親子を滅ぼすなどの集権化進めさらなる尼子氏の勢力拡大図った。 晴久の元、尼子氏最盛期迎え、その勢力本拠である出雲直轄地である伯耆隠岐の他石見東部美作因幡西部備後北部備中北西備前西部まで及び、尼子家の名は中央にまで届くほどであった

※この「山陰・山陽八ヶ国の領有」の解説は、「尼子氏」の解説の一部です。
「山陰・山陽八ヶ国の領有」を含む「尼子氏」の記事については、「尼子氏」の概要を参照ください。

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