大内氏との戦いとは? わかりやすく解説

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大内氏との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:04 UTC 版)

熊谷信直」の記事における「大内氏との戦い」の解説

天文17年1548年8月、信直は元就と共に山口大内義隆訪問翌年3月まで山口滞在した。そして天文19年1550年9月元就の命を受け、月山富田城の戦い煮え湯飲まされ幽閉中の吉川興経天野隆重急襲して殺害した。興経の首は信直家臣末田直共が取った天文20年1551年)、大寧寺の変大内義隆家臣であった陶隆房謀反により横死した。毛利氏徐々に独立志向し陶氏率い大内氏従属続けながらも、安芸国内の統一目指した。翌21年1552年)は5月備後尼子氏対陣7月には祝貞近を攻撃9月には義隆の残党立て籠もる安芸槌山城攻略平賀隆保らを討ち取った。また翌22年1553年)には、鶴首城主・三村家親支援した吉川元春従い備中猿掛城主・庄為資攻撃して降伏させた。 天文23年1554年)、折敷畑の戦いでも吉川主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長自刃追い込んだ同年6月、陶軍の残党打ち破り廿日市周辺征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城攻撃した野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送され暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦目の前にしてやむを得ず緊急措置至った天文24年弘治元年1555年)、陶晴賢(隆房より改名率い大内20,000厳島上陸毛利軍拠点で、己斐直之が籠もる島内宮尾城包囲攻撃した。信直は4人の息子高直、直清、広真、三須隆経らと兵を率いて落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した旧暦10月1日毛利元就率い本隊奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った厳島の戦い)。 同年防長経略にも参戦岩国進出して杉隆泰鞍掛山城攻略した。翌弘治2年1556年)から3年1557年)にかけて山口制圧逃亡した大内義長追って長門勝山城包囲し内藤隆世自刃降伏した義長も最終的に自刃して果てた

※この「大内氏との戦い」の解説は、「熊谷信直」の解説の一部です。
「大内氏との戦い」を含む「熊谷信直」の記事については、「熊谷信直」の概要を参照ください。

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