大内氏との戦い
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天文17年(1548年)8月、信直は元就と共に山口の大内義隆を訪問。翌年の3月まで山口に滞在した。そして天文19年(1550年)9月、元就の命を受け、月山富田城の戦いで煮え湯を飲まされた幽閉中の吉川興経を天野隆重と急襲して殺害した。興経の首は信直家臣の末田直共が取った。 天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が家臣であった陶隆房の謀反により横死した。毛利氏は徐々に独立を志向し、陶氏率いる大内氏に従属を続けながらも、安芸国内の統一を目指した。翌21年(1552年)は5月に備後で尼子氏と対陣。7月には祝貞近を攻撃。9月には義隆の残党が立て籠もる安芸槌山城を攻略、平賀隆保らを討ち取った。また翌22年(1553年)には、鶴首城主・三村家親を支援した吉川元春に従い、備中猿掛城主・庄為資を攻撃して降伏させた。 天文23年(1554年)、折敷畑の戦いでも吉川軍主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長を自刃に追い込んだ。同年6月、陶軍の残党を打ち破り、廿日市周辺を征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城を攻撃した。野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦を目の前にしてやむを得ず緊急措置に至った。 天文24年(弘治元年、1555年)、陶晴賢(隆房より改名)率いる大内軍20,000が厳島に上陸。毛利軍の拠点で、己斐直之が籠もる島内の宮尾城を包囲攻撃した。信直は4人の息子高直、直清、広真、三須隆経らと兵を率いて、落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した。旧暦10月1日に毛利元就率いる本隊が奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った(厳島の戦い)。 同年の防長経略にも参戦、岩国へ進出して杉隆泰の鞍掛山城を攻略した。翌弘治2年(1556年)から3年(1557年)にかけて山口を制圧。逃亡した大内義長を追って長門勝山城を包囲し、内藤隆世は自刃。降伏した義長も最終的には自刃して果てた。
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