大内氏一族の統率
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/25 15:46 UTC 版)
父は鷲頭氏討伐を成し得ぬまま正平7年/観応3年(1352年)に死去する。家督を継いだ弘世は周防平定を急ぎ、正平7年/観応3年(1352年)2月19・20日、都濃郡鷲頭荘白坂山において鷲頭長弘、内藤藤時と戦い、つづく閏2月17日には高志垣、閏2月19日、3月27・28日には熊毛郡新屋河内真尾、4月9日から29日には都濃郡鷲頭荘白坂山、さらに8月3日にも鷲頭長弘らと戦闘に及ぶ。その結果、正平8年/文和2年(1353年)にまでには鷲頭氏と講和して鷲頭一派を傘下に収めた。 大内弘世が周防平定を急いだ背景として、正平7年/観応3年改め文和元年(1352年)に足利直冬が大宰府で一色範氏に敗れて長門国に撤退したこと、その一色範氏も南朝方の菊地氏には敗れ、長門守護であった厚東氏は一色範氏を支援する守護(当主)厚東義武と足利直冬を支援する一族の厚東武藤に分裂しており、大内氏を取り巻く状況が急変したことがあったと考えられる。
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