大内氏遺臣の蜂起とは? わかりやすく解説

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大内氏遺臣の蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)

防長経略」の記事における「大内氏遺臣の蜂起」の解説

防長経略完了から2ヶ月後弘治3年1557年6月元就帰国した機を捉えて陶氏家臣であった佐藤左衛門尉父子山口にて蜂起し山口守備の任に当たっていた市川経好と祖式某によって鎮圧された。この戦いで大内氏降将である温科種重が負傷しつつ奮闘し元就から賞賛されている。 さらに、大内氏重臣であった陶氏内藤氏杉氏問田氏などの遺臣与党糾合して防長各地蜂起11月10日には大内氏遺臣草場氏・小原氏・河越氏らが、義隆の遺児問田亀鶴丸擁立して山口乱入し障子ヶ岳城障子岳)に籠城した。この時、たまたま山口滞在していた毛利方の内藤隆春雑賀隆利と共に鎮圧乗り出し、翌11月11日には雑賀隆利障子ヶ岳城急襲して妙見崎山大内氏残党軍を撃ち破った妙見崎の戦い)。この戦いで杉重輔遺児松千代(後の杉重良)の軍勢敵兵首級35挙げ勝間田盛道負傷しつつも問田氏遺臣2人討ち三戸元貞有馬世澄らも戦功挙げたまた、同じ頃に山口に近い糸米においても大内氏遺臣蜂起企てたが、百姓与三右衛門内通によって蜂起事前に察知した久芳賢直によって未然鎮圧され長門国においても大内氏遺臣蜂起したが、長門国一宮住吉神社大宮司である賀田盛実が勝間田就盛と協力して鎮圧した。 さらに周防国徳地富海富田でも大規模な大内氏旧臣蜂起起こったため、大内氏降将周防国切山保に所領有する波多野勝実が兵を率いて防府右田ヶ岳城籠城して徳地方面蜂起防ぎ児玉就忠被官である大楽彦三郎が別所城籠城して富田富海方面蜂起防いだ大内氏旧臣蜂起知った元就隆元11月18日再度出陣していたが、元就らが富田着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており、元就らは12月26日吉田へと帰着した。なお、元就三子教訓状したためたのは、富田の勝栄寺に在陣していた11月25日とされている。

※この「大内氏遺臣の蜂起」の解説は、「防長経略」の解説の一部です。
「大内氏遺臣の蜂起」を含む「防長経略」の記事については、「防長経略」の概要を参照ください。

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