大内氏遺臣の蜂起
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防長経略の完了から2ヶ月後の弘治3年(1557年)6月、元就が帰国した機を捉えて陶氏家臣であった佐藤宗左衛門尉父子が山口にて蜂起し、山口守備の任に当たっていた市川経好と祖式某によって鎮圧された。この戦いで大内氏の降将である温科種重が負傷しつつ奮闘し、元就から賞賛されている。 さらに、大内氏の重臣であった陶氏、内藤氏、杉氏、問田氏などの遺臣が与党を糾合して防長各地で蜂起。11月10日には大内氏遺臣の草場氏・小原氏・河越氏らが、義隆の遺児問田亀鶴丸を擁立して山口に乱入し、障子ヶ岳城(障子岳)に籠城した。この時、たまたま山口に滞在していた毛利方の内藤隆春は雑賀隆利と共に鎮圧に乗り出し、翌11月11日には雑賀隆利が障子ヶ岳城を急襲して、妙見崎山で大内氏残党軍を撃ち破った(妙見崎の戦い)。この戦いで杉重輔の遺児・松千代(後の杉重良)の軍勢は敵兵の首級を35挙げ、勝間田盛道は負傷しつつも問田氏の遺臣2人を討ち、三戸元貞、有馬世澄らも戦功を挙げた。 また、同じ頃に山口に近い糸米においても大内氏遺臣が蜂起を企てたが、百姓・与三右衛門の内通によって蜂起を事前に察知した久芳賢直によって未然に鎮圧され、長門国においても大内氏遺臣が蜂起したが、長門国一宮・住吉神社の大宮司である賀田盛実が勝間田就盛と協力して鎮圧した。 さらに周防国の徳地、富海、富田でも大規模な大内氏旧臣の蜂起が起こったため、大内氏の降将で周防国切山保に所領を有する波多野勝実が兵を率いて防府の右田ヶ岳城に籠城して徳地方面の蜂起を防ぎ、児玉就忠の被官である大楽彦三郎が別所城に籠城して富田と富海方面の蜂起を防いだ。 大内氏旧臣の蜂起を知った元就と隆元も11月18日に再度出陣していたが、元就らが富田に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており、元就らは12月26日に吉田へと帰着した。なお、元就が三子教訓状をしたためたのは、富田の勝栄寺に在陣していた11月25日とされている。
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