大内文化を支えた経済基盤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/31 08:00 UTC 版)
「大内文化」の記事における「大内文化を支えた経済基盤」の解説
大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。大内氏は倭寇を取り締まることで明や朝鮮と私貿易を行い利益を得ていたが、後期には「日本国王之印(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになる。すなわち1468年成化の勘合、1523年正徳の勘合を手に入れ勘合貿易を独占すべく細川氏と争い(寧波の乱など)貿易独占権を手に入れた。また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大させるとその量は世界の三分の一を占めた。 勘合貿易における主な輸入品と輸出品 輸出品 - 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯 輸入品 - 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器 大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力している。鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。寺尾鉱山などに精錬した遺構があり、精製技術を開発しこれらの産出を増やすことに努めていた様子が伺える。また、大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することにつながり、より多くの輸入品を手に入れることに繋がった。大内氏は文治に傾倒し衰退したが、文化奨励は貿易を通じて大内氏の利益に還元される合理的システムになっていた。また、大内氏は1346年頃から大部分を輸入に依存していた絹織物の国内生産にも尽力し、絹普及と後の西陣織や博多織に大きな影響を与えた。
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