尼子氏の興亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 14:27 UTC 版)
天文7年(1538年)に尼子氏はほぼ備中を平定したが、天文10年(1541年)に吉田郡山城を攻めきれず兵を引いてしまうとその威光にも翳りが見え始めた。すると備中では、庄氏の一族である穂井田(穂田とも)実近が、三村氏と争いを起こした。三村家親は毛利元就に助けを請い、これが毛利氏の備中侵入のきっかけとなった。毛利氏は備後平定を図り、天文18年(1549年)には神辺城を支配下に置いた。 同22年(1551年)に、毛利元就・隆元は井原に陣をすえ、吉川元春が出陣し、三村家親を先陣に猿掛城を攻めたが、穂井田実近は勇敢にも城から打ち出すと、家親を追い立て毛利勢に打撃を与えた。その上で庄氏は毛利氏に講和を申し入れ、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで庄・三村両氏の和睦が成立したのである。この結果備中の大半は毛利氏の幕下に入ることになり、いよいよ尼子氏の勢力は限定的なものとなった。さらにこのころ備前の浦上宗景(宇喜多氏 )も尼子氏に従う兄の政宗と袂を分かち、対立勢力として毛利氏の庇護を受けるようになっている。 月山富田城にこもる尼子氏が、毛利氏に降伏したのは永禄9年(1566年)のことである。
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