尼子氏残党への勝利・最大版図の獲得
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「毛利輝元」の記事における「尼子氏残党への勝利・最大版図の獲得」の解説
尼子軍は因幡国内において孤立し、天正4年(1576年)5月頃に若桜鬼ヶ城を退去し、尼子氏の勢力は因幡国から撤退した。 天正5年12月、織田方の羽柴秀吉が宇喜多直家の支城である播磨国上月城を攻略すると、尼子勝久と幸盛がその城に入った。 天正6年2月中旬、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方した。輝元はこれを好機とみて、4月に元春・隆景らに大軍を以て播磨に進軍させ、自身も備中高松城に入った。その後、同月18日(5月24日)に毛利氏は尼子氏残党が籠城する上月城を包囲する。 5月、織田方の秀吉が荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援のため、高倉山に布陣した。だが、6月に毛利氏は高倉山で織田軍を破り、書写山まで撤退させ、上月城は孤立無援の状態になった。 そのため、7月5日に籠城していた尼子氏残党は降伏し、毛利氏は城兵の助命を条件として、尼子勝久及び弟の氏久は切腹させ、他多数の者を処刑した。山中幸盛は許され、輝元の在陣する備中高松城へ連行されたが、その途中で殺害された。 上月城の戦いの勝利により、輝元は安芸・周防・長門・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見のみならず、讃岐、但馬、播磨、豊前の一部を領有し、元就の時代をはるかに上回る領土を支配する大名となった。また、輝元は足利義昭を擁して鞆幕府を庇護することで、「副将軍」としてその名を天下に知らしめ、陸海の戦闘で織田氏に勝利し、信長に対抗しうる最大の勢力となった。
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