尼子臣従時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:17 UTC 版)
天文23年(1554年)、尼子家中において三浦貞広の高田支配を容認していた尼子誠久が新宮党粛清で死亡すると、尼子晴久は高田周辺の直轄支配に乗り出し、代官として宇山誠明が配置された。これに対して不満を鬱積させた一部の三浦家臣団は永禄2年(1559年)に牧河内守・金田弘久らが三浦貞勝(貞広弟)を擁立して挙兵し、宇山らから高田城を奪い独立したが、三浦貞広・牧尚春・大河原貞尚らはこの挙兵に加わらず尼子との同盟関係を維持したという。 その後、尼子晴久の跡を継いだ尼子義久が毛利元就との争いで劣勢となり美作国における力が衰退し始めると義久は尚春に対して、美作国での戦いの働き次第では宇山誠久の領を他に移して三浦貞広の高田への復帰を認める旨を通達した。この時、貞広と尚春は出雲国で義久の元に置かれていたが、戦局の悪化によって高田の直轄支配を断念してでも彼らを美作に派兵するという判断に至ったようである。
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