尼子氏配下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/17 06:10 UTC 版)
享禄2年(1529年)、出雲国飯石郡赤穴荘の赤穴城(瀬戸山城)を本拠とし、尼子氏に属していた国人・赤穴光清の三男として生まれる。 天文11年(1542年)から始まる大内義隆による第一次月山富田城の戦いにおいて、父の光清が瀬戸山城を守って戦死し、瀬戸山城を大内氏に奪われる。翌天文12年(1543年)、祖父の赤穴久清は大内氏の撤退に隙を突いて瀬戸山城を奪還したが、大内氏の人質となっていた長兄の詮清と次兄の定清が筑前国で殺害されたため、盛清が久清の後見を受けて天文13年(1544年)に家督を相続した。戦後に尼子晴久は、亡き光清らの忠義に応えるため、盛清に加増して報いている。 永禄3年(1560年)に尼子晴久が死去し、永禄5年(1562年)に毛利元就による第二次月山富田城の戦いが始まると瀬戸山城は毛利の大軍の攻撃を受ける。元就は三刀屋久扶を仲介として所領安堵を条件に降伏を促し、盛清はこれに応じて毛利氏に帰属した。盛清には本領の赤穴500貫をはじめ、出雲国と石見国内の264貫の給地を安堵され、さらに普請役などの天役・郡役の免除も認められたことで、毛利氏に帰属して以後も赤穴氏は自立性を維持することなる。
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