山陽・山陰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:15 UTC 版)
関西圏を走る殆どの快速列車と山陽地方・山陰地方を走る列車の運転カードが出現する。
※この「山陽・山陰」の解説は、「プラチナ・トレイン」の解説の一部です。
「山陽・山陰」を含む「プラチナ・トレイン」の記事については、「プラチナ・トレイン」の概要を参照ください。
山陽・山陰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)
初期は大内義興と尼子経久との対立があった。大内義興は、勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に覇を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら月山富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。 両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、国人の一人である毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。元就は尼子氏と大内氏の間で外交的にはバランスを保っていたが、後に尼子氏を裏切り大内氏に付き、尼子晴久が吉田郡山城へ向けて進軍。元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。 陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって大内義隆が死亡すると、8ヶ国守護となった尼子晴久と、大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国の覇者となる。 元就の孫・毛利輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となる。また、尼子氏再興を目指す山中幸盛(山中鹿之助)が度々挙兵するも、これを退ける。だが、織田軍の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると、三木城(三木合戦)、鳥取城、高松城が次々と落とされた。 しかし、本能寺の変が発生すると、輝元は秀吉と和睦し、秀吉も軍を返し(中国大返し)、命拾いした。その後、毛利氏は豊臣氏の配下となり、四国攻め、九州征伐、小田原征伐などで活躍し、輝元も五大老に就任する。1589年に輝元は海運の利を活かせる広島城の築城を開始し、江戸時代を通じて城下は安芸広島藩42万6000石の拠点として発展した。豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立して発生した関ヶ原の戦いにおいて、輝元は西軍の総大将を務め、戦後に周防、長門の2か国の36万9000石に封じられた。 この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏(浦上村宗)、同じく備前の宇喜多氏(宇喜多直家)などがいる。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国・備前国・美作国を奪う。零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。浦上氏は宗景の代に入ると重臣・宇喜多直家の離反によって崩壊する。備前国を手中にした宇喜多直家は羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自身の嫡子宇喜多秀家を秀吉に人質にするなどした。秀家は関ヶ原の戦いで西軍の先鋒を務めたが、戦後に西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ。
※この「山陽・山陰」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
「山陽・山陰」を含む「戦国時代 (日本)」の記事については、「戦国時代 (日本)」の概要を参照ください。
- 山陽・山陰のページへのリンク