戦国の世を生き抜く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 07:46 UTC 版)
家督を継いだ国司元相は、毛利元就の嫡男、毛利隆元の守役を務めた。この頃から毛利氏周辺での尼子氏と大内氏の勢力争いが激しくなり、大内方に味方をしていた毛利氏に対して、天文9年(1540年)、尼子詮久(後の尼子晴久)が吉田郡山城を攻撃するに至った。この吉田郡山城の戦いで元相は奮戦し、多くの戦功を挙げた。 天文11年(1542年)から始まる、大内義隆の月山富田城攻めでは、他の安芸国人領主らとともに毛利氏も出雲国に出陣した。翌年、安芸・出雲国人衆の一部が大内方を離反し、大内方は撤退を余儀なくされた。その撤退戦において元相は負傷し、多くの同僚を失いながらも安芸吉田に帰還した。 天文19年(1550年)に、赤川元保、粟屋元親、桂元忠、児玉就忠らとともに五奉行の一人となった。また、永禄3年(1560年)には、正親町天皇の即位料を納めるために使者として上洛、室町将軍足利義輝から「槍の鈴」の免許を許された。 毛利氏重臣として東奔西走した国司元相は、永禄10年(1567年)頃に家督を嫡男の国司元武に奉行職と家督を譲って隠居した。しかし、引き続き毛利氏の長老としてその勢力伸張を支えた。家督を継いだ国司元武は、父と同様に毛利輝元の守役を務めた。豊臣秀吉の天下統一後、文禄・慶長の役でも、朝鮮に渡り、戦功を挙げる等、毛利氏の重臣として活躍した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が敗北した後、毛利氏は周防長門の両国に減封された。この頃の国司氏の当主は元武の弟、国司元蔵になっており、引き続き毛利氏の重臣として、戦後の江戸幕府との折衝等に尽力した。
※この「戦国の世を生き抜く」の解説は、「国司氏」の解説の一部です。
「戦国の世を生き抜く」を含む「国司氏」の記事については、「国司氏」の概要を参照ください。
- 戦国の世を生き抜くのページへのリンク