戦国の終焉
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豊織期以降、畿内をはじめ全国的に散発的な戦闘が終わり、やがて江戸幕府になると一揆以外に戦闘はなくなった。依然として突発的な戦闘に備える必要はあるもの予想される敵の兵力は、ずっと少なく見積もられた。また一揆に参加する農民や幕政に不満を持つ武士が大規模な騎兵を準備できるはずがなく、このような非対称戦争において騎兵戦闘を主眼とする山城の重要性が下がった。実際に戦場は、郊外から市街地に移り、石田三成を狙った七将襲撃事件、赤穂浪士の吉良邸襲撃、水野忠邦襲撃の現場は、彼らの屋敷であった。
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戦国の終焉
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天正3年(1575年)に、細川通菫は鴨山城に入った。通菫は城を大改修し備中守護を輩出した細川家の勢力回復に努めたものの、既に守護が国を支配した時代は過ぎ去り、立場は戦国大名毛利氏の客将でしかなかった。なお永禄6年(1563年)には毛利隆元が備中守護に任じられているが、その後は誰も任命を受けることはなかった。武将としての活躍は毛利氏の信頼を得るには十分なもので、備中兵乱では毛利方として国吉城攻めに加わっている。なお天正6年(1578年)7月には、毛利勢は上月城で羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏残党を滅ぼした。 天正7年(1579年)になると、毛利氏と織田氏の対立の最前線に位置するようになった宇喜多直家は、毛利方と手を切り羽柴秀吉のもとに降った。以後、天正7年から9年にかけて毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入し、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開した。 そして天正10年(1582年)には、備中高松城の戦いに通菫も加わり、織田勢と対峙した。この直後に本能寺の変が生じ、織田氏と講和した毛利氏は、安芸・周防・長門・石見・出雲・隠岐・備後・備中半国・伯耆半国、を領する中国の太守に、また豊臣政権下では五大老となった。 通薫は浅口を中心に6000石余(貫高制の時代のはずだが)の知行を有するようになっており、永禄2年に備中の地を踏んで以来の旧領回復に、一定の成果を上げたとも言える。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の際には、通薫は小早川隆景に従って出陣し先鋒をも勤めるまでにいたるが、帰国途中の赤間関で死没す。享年53。 通薫の子細川元通(浅口元道)は穂井田元清の娘を妻としており、元清の麾下で、朝鮮出兵に出陣し軍功を収めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後に、西軍の毛利氏が防長二カ国に削封されると、元通も浅口を去り義弟毛利秀元のもとに身を寄せた。家臣たちは備中に止まるもの、防長に下るものありと離散せざるを得なかった。元通の子孫は長府毛利家の家老となり、やがて明治維新を迎えている。
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