山から平地への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:09 UTC 版)
戦国後期になると城下町を伴う平山城・平城が主流となった。 山城から平城が主流になったといっても平城がそれまでなかった訳ではない。平城京や平安京は、堀や塀を備えており、一種の平城である。つまり山城と平城は、同時に存在していた。ここで着目するべきは、革命的な平城が現れて山城の役割を奪ったのではなく、山城の重要性が下がり、相対的にもともと重要だった平地の施設、平城に回帰しただけであるという点である。 それには、次の理由が考えられている。 戦の常態化 山城は、居住性が低く、そこまで移動しなければならず即応性が低い。常態化した戦闘には、素早い戦闘への移行、準備が要求された。 鎌倉幕府が滅びると日本国内を統治する勢力がなく各地で戦闘が常態化していった。また状況によっては、山城に移動できないこともあった。例えば足利義輝、織田信長などは、家臣の裏切りによって山城に移動することが出来ずに戦死している。あるいは山城を持たない勢力は、市域防衛を目指した。堺や寺社勢力は、平地に堀や柵、櫓などを建設して環濠集落を形成した。敵の奇襲、家臣の裏切り、戦闘の常態化により戦時のみ山城に移動する形態が廃れ、常に守備兵に守られ居住性と即応性の高いこれら平地の防衛施設が巨大化していった。 戦国の終焉 豊織期以降、畿内をはじめ全国的に散発的な戦闘が終わり、やがて江戸幕府になると一揆以外に戦闘はなくなった。依然として突発的な戦闘に備える必要はあるもの予想される敵の兵力は、ずっと少なく見積もられた。また一揆に参加する農民や幕政に不満を持つ武士が大規模な騎兵を準備できるはずがなく、このような非対称戦争において騎兵戦闘を主眼とする山城の重要性が下がった。実際に戦場は、郊外から市街地に移り、石田三成を狙った七将襲撃事件、赤穂浪士の吉良邸襲撃、水野忠邦襲撃の現場は、彼らの屋敷であった。 戦国大名の権威の象徴 為政者を「城主」と呼ぶように大名と城郭は、結びつけられた。支配者である戦国大名の権威を民衆に知らしめるため、見え辛い山岳部から平地に移るようになった。為政者の権威を示す巨大な建造物が市域に作られるのは、何も戦国末期に限らないことである。特に巨大な天守閣は、本来の監視用の櫓としての機能を離れ、華美に装飾され、巨大化、高層化し、象徴的な建造物になった。 火縄銃の導入 木柵と浅い堀で防御した山城は、火縄銃による攻撃に脆弱であった。これを防ぐため何重もの深い掘と塀によって防御するようになった。また守備側も火縄銃で攻城側の兵を迎撃できるようになったので堀の深さをあえて槍の届く程度にとどめる必要がなくなった。さらにこれまで最も重要な攻撃部隊であった騎兵が火砲に立場を譲るようになった。このため騎兵の動きを阻害する山岳部に城塞を築く必要性が下がった。 大規模化 城は、防衛施設から政庁舎として役割が移行していった。戦国大名が支配権を確立し、広大な領地を治めるようになると各地に割拠していた周辺の国人領主などを完全に家臣として組み込んで城下町に集住させるようになった。そのため城も大規模化する必要があったが、山城では規模に限界があった。また軍事面においても大規模な兵力を集結させる必要が出来、これまでの山城より大きな城塞が求められるようになった。後北条氏の小田原城、豊臣氏の大阪城、徳川氏の江戸城などは、市街地全体を防衛するまで拡大した。 石垣の導入 山城の時代から石積みによって土を盛るという技術は、存在した。しかし豊織期以降になると石垣の技術が向上し、これまでより大規模な土地造成が可能になった。平地でも高台を造ることが出来るようになると重要な街道に近い場所に敵の移動を阻害し、視界を確保できる高台を造ることが出来るようになったため不便な山岳部にわざわざ山城を造る必要がなくなった。 山城から平山城・平城に移行するにあたっては、麓に新たに主郭を築いて旧来の山城を「詰の城」とする例(萩城など)や、城郭を低い丘や平地に移転する例(備後福山城など)があった。また小田原城のように、元々は山城であったものが城と麓の城下町が拡張を繰り返した結果、両者が一体化し、城下町全体を惣構えで囲んだ大規模な平山城に発展した例もある。 勿論、すべての山城を平山城や平城に置き換える必要はなかった。平城化は、大名自身が居住する大規模な居城にとどまり、各地の山城は健在であった。また一部では、従来の山城のまま平山城・平城に移行しなかった場合もある。こうした山城の中には、石垣を導入したり火縄銃などに対応するために、むしろ従来より発展した例もある。例えば西国においては、放射状竪堀の導入が盛んになった。さらに従来の木柵ではなく平山城や平城の建築様式を取り入れ、狭間をもつ土塀で囲まれた、さながらトーチカのような鉄壁の要塞と化した山城もある(鷹取城など)。 城のほとんどが平山城・平城に移行するのは、一国一城令によって各地の山城を破却する江戸時代以降になる。ただし、江戸時代の大名の居城においても、山麓の居館と戦闘時に立て篭もる背後の山城の組合せという中世的様式を受け継いだ城も多く、伊予松山城、鳥取城、津和野城などがこれにあたる。萩城のように平城移行後も、山城時代の建造物を「詰の城」として残置したものもある。仙台城のように、江戸時代に入ってから山城を建造し、後に拡張により平山城に移行した例もある。
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