有地隆信とは? わかりやすく解説

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有地隆信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/22 15:43 UTC 版)

 
有地隆信
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 有地高信[1]
官位 刑部少輔[2]備後守[1]美作守[1]
主君 大内義隆毛利元就
氏族 藤姓宮氏→有地氏
父母 父:宮元盛[1]、または、宮清元[3]
兄弟 隆信、景信[3]
正信[1]、元信[1]、女(小田時清室)[1]、女(渡辺三郎左衛門室)、九左衛門[1]、元昌[1][4]、女(楢崎之忠室)[1]、女(山田内澄軒室)[1]、文右衛門[1]、文左衛門[1]、少輔五郎?
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有地 隆信(あるじ たかのぶ)は、戦国時代武士備後国芦田郡有地[注釈 1]の有地城主[2]毛利氏の家臣。

生涯

備後国に大きな勢力を有していた宮氏の出身で、後に在名から「有地」の名字を名乗ったとされ、の「隆」の字は大内義隆から偏諱を受けたものとみられる。現在の広島県福山市芦田町上有地の大谷の標高262mの山頂部に大谷城を築いた。現在でも山頂に曲輪跡や土塁、祠、拝殿、本丸跡が残る。

閥閲録』巻83「有地右衛門」に収録された有地氏の家譜によると、隆信の嫡男・正信の代に有地氏に伝わる文書が焼失したとされ、有地隆信の経歴はよくわかっていない[2]

そのため、弘治3年(1557年2月2日付けで毛利元就隆元父子と毛利氏に属する備後国の諸領主が連名で乱暴狼藉を行った兵に対する処罰や勝手な陣払いの禁止を誓約した傘連判状形式の起請文[5]に「有地刑部少輔隆信」と署名していることが文献史料における有地氏の初見である[注釈 2]

嫡男の正信が隆信の後を継ぎ、四男・元昌は小早川隆景の家臣となった[2]。また、永禄4年(1561年)の『毛利元就・隆元父子雄高山行向留日記』に登場する有地少輔五郎も隆信の子と考えられている[2]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の広島県福山市芦田町大字上有地・下有地
  2. ^ この傘連判状に署名した人物は、毛利元就から時計回りに、毛利元就、田総元里、古志豊綱、楢崎信景、新見元致、芥川元正、湯浅元宗、安田元資、毛利隆元和智誠春、高屋信春(馬屋原信春)、柚谷元家、杉原隆盛有地隆信、上原豊将、長元信、里資(名字不明)、三吉隆亮の18名[5]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 萩藩諸家系譜 1983, p. 805.
  2. ^ a b c d e 舘鼻誠 1986, p. 247.
  3. ^ a b 田口義之 2009.
  4. ^ 『閥閲録』巻140「山田吉左衛門」家譜。
  5. ^ a b 『毛利家文書』第225号、弘治3年(1557年)2月2日付け、毛利氏親類衆年寄衆幷家人連署起請文案。

参考文献




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