山内氏当主就任
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享禄3年(1530年)、備後山内氏庶流である多賀山氏当主・多賀山通続と、備後山内氏当主・山内直通の娘との間の嫡男として誕生した。 天文元年(1532年)、出雲国の尼子経久の三男・塩冶興久が経久に対して反乱を起こすも敗北した。敗れた興久は義兄・山内直通を頼って山内氏の居城である甲山城に落ち延び、直通は興久を匿った。これに対し尼子経久は、天文3年(1534年)に尼子氏家臣の黒正甚兵衛を派遣して興久の引き渡しを直通に要求した。直通は興久に対する義理や情誼によって応諾することが出来なかったが、そのことを察した興久は直通に謝して自害したとされる。直通は興久の首を尼子氏に引渡して和睦したものの、山内氏と尼子氏の関係は改善しなかった。 山内氏と尼子氏の関係が悪化していることに目をつけた毛利元就は山内氏との関係強化に乗り出し、天文4年(1535年)に山内氏と毛利氏の間で講和が成立した。山内氏と毛利氏の講和を脅威と見た尼子経久と尼子詮久(後の晴久)は、天文5年(1536年)春に備後に侵攻して甲山城を攻略し、直通を隠居に追い込んだ。直通の子・豊通は直通に先立って死去しており、嫡男もいなかったことから、当初詮久は山内氏を断絶させるつもりであったが、尼子氏寄りだった多賀山氏出身で直通の外孫である隆通に山内家の家督を相続させることにした。 以上の経緯から、隆通が当主に就任した時の山内氏は尼子氏の強い影響下にあったが、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけての吉田郡山城の戦いで尼子詮久が毛利元就の吉田郡山城攻略に失敗し、天文10年(1541年)11月13日には尼子経久が死去した。これを好機と見た直通、三吉隆亮、多賀山通続、福屋隆兼、吉川興経、宮若狭守、三刀屋久扶、宍道隆慶、三沢為清、本城常光、河津民部左衛門、古志清左衛門尉等の備後・安芸・石見、出雲の国人たちは陶隆房(晴賢)に、大内義隆が自ら出雲国へ侵攻するならば大内方へ味方する旨の書状を書き送った。これにより、天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて大内義隆の出雲遠征が行われ、隆通も従った。天文12年(1543年)1月11日には大内義隆から「隆」の偏諱と加冠状を与えられている。 しかしこの出雲遠征は上手くいかず、三沢為清、三刀屋久扶、吉川興経、本城常光、そして山内隆通らが再び尼子方に転じたことで失敗に終わる。この時、撤退中の毛利元就ら一行を隆通が居城の甲山城で慰労し、家臣を護衛につけて吉田郡山城まで送ったという逸話が伝えられている。
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