山内氏当主就任とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 山内氏当主就任の意味・解説 

山内氏当主就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/21 14:28 UTC 版)

山内隆通」の記事における「山内氏当主就任」の解説

享禄3年1530年)、備後山内氏庶流である多賀山氏当主多賀山通続と、備後山内氏当主山内直通の娘との間の嫡男として誕生した天文元年1532年)、出雲国尼子経久三男塩冶興久が経久に対して反乱を起こす敗北した敗れた興久は義兄山内直通頼って山内氏居城である甲山城に落ち延び直通は興久を匿った。これに対し尼子経久は、天文3年1534年)に尼子氏家臣黒正甚兵衛派遣して興久の引き渡し直通要求した直通は興久に対す義理情誼によって応諾することが出来なかったが、そのこと察した興久は直通謝して自害したとされる直通は興久の首を尼子氏引渡し和睦したものの、山内氏尼子氏の関係は改善しなかった。 山内氏尼子氏の関係が悪化していることに目をつけた毛利元就山内氏との関係強化乗り出し天文4年1535年)に山内氏毛利氏の間で講和成立した山内氏毛利氏講和脅威見た尼子経久尼子詮久(後の晴久)は、天文5年1536年春に備後侵攻し甲山城を攻略し直通隠居追い込んだ直通の子豊通直通先立って死去しており、嫡男もいなかったことから、当初詮久は山内氏断絶させるつもりであったが、尼子氏寄りだった多賀山氏出身直通外孫である隆通に山内家家督相続させることにした。 以上の経緯から、隆通が当主就任した時の山内氏尼子氏の強い影響にあったが、天文9年1540年)から天文10年1541年)にかけての吉田郡山城の戦い尼子詮久毛利元就吉田郡山城攻略失敗し天文10年1541年11月13日には尼子経久死去した。これを好機見た直通三吉隆亮多賀山通続福屋隆兼吉川興経宮若狭守、三刀屋久扶宍道隆慶三沢為清本城常光河津民部左衛門古志清左衛門尉等の備後安芸石見出雲の国人たちは陶隆房(晴賢)に、大内義隆が自ら出雲国侵攻するならば大内方味方する旨の書状書き送った。これにより、天文11年1542年)から天文12年1543年)にかけて大内義隆出雲遠征が行われ、隆通も従った天文12年1543年1月11日には大内義隆から「隆」の偏諱加冠状与えられている。 しかしこの出雲遠征上手くいかず、三沢為清三刀屋久扶吉川興経本城常光、そして山内隆通らが再び尼子方に転じたことで失敗に終わる。この時、撤退中の毛利元就一行を隆通が居城甲山城で慰労し、家臣護衛につけて吉田郡山城まで送ったという逸話伝えられている。

※この「山内氏当主就任」の解説は、「山内隆通」の解説の一部です。
「山内氏当主就任」を含む「山内隆通」の記事については、「山内隆通」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「山内氏当主就任」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山内氏当主就任」の関連用語

山内氏当主就任のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山内氏当主就任のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの山内隆通 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS