山内氏の入府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 14:16 UTC 版)
山内氏の土佐入府にあたり、長曾我部遺臣の一領具足たちは頑強な抵抗を見せた(浦戸一揆)。最終的には、一揆中の裏切りによって、多くの旧臣が打ち取られる形でことは決着した。一豊が入府したのちも、滝山一揆など、数年間は散発的な反乱が続いた。 一豊は入府後、元親の居城を引き継いだ浦戸城にかわり、広域な城下町形成を企図して高知平野の大高坂山に新城を築城、慶長8年(1603年)にここへ移った。新城は慶長15年(1610年)に高知城と名付けられ、以降山内家代々の土佐経営の中心地となった。同時に城下町も碁盤目状に整備され、家臣や商人・職人などが定住した。 土佐藩の統治機構は以下の通りである。まず、家柄等をもととする身分の区別として、上士(家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組)と下士(郷士・徒士・組外・足軽・奉公人)があり、大まかに分けて遠州時代からの山内家臣が上士、長曾我部旧臣が下士とされた。のちに、上士と下士の間で、白札(しろふだ)という特別の身分が出来た。 家臣のうち、領国統治に直接関わる部署は外官と称された。外官職のトップは奉行職(執政とも)と呼ばれ、家老のうちから任命された。実際に実務を指揮するのは仕置役(参政とも)であり、中老や馬廻から任命された。仕置役の下に各部署が設置されて職務を分担し、奉行がこれを統率した。裁判や警察に関する職務は大目付が担当し、奉行職に直属した。 藩主の家政に関わる部署は内官と称された。内官職のトップは近習家老と呼ばれ、山内家の私的な家政の管理のほか、江戸・京都・大坂の藩邸を通じて幕府や他大名との渉外なども統括した。
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