備後山内氏
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山内首藤氏は1221年(承久3年)に蓮華王院領の備後国地毗庄(現広島県庄原市)の地頭になり、さらに1308年(延慶1年)に経俊の曾孫山内首藤時通の2男通綱の子山内首藤通資は、領家から地毗庄本郷の年貢徴収を地頭請により請け負った。通資は、1316年(正和5年)に一族を率いて所領の地毗庄に下向し、本郷を中心に同地で勢力を築いた。この系統は以降、備後山内氏と呼ばれる。室町時代には守護山名氏の下で備後の守護代を務めたが、応仁の乱以後、山名氏の力が衰えたのに乗じ、備後で独自の勢力を築いた。戦国時代の当主山内直通の孫山内隆通の代には安芸毛利氏に仕え、江戸時代には長州藩の家老として存続した。 経俊の孫宗俊の4男山内首藤清俊は、1243年(寛元1年)に母鶴熊から熊野山領相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北庄領主職、備中国穂太庄預所并下司職を譲渡され、一族としての所領を一挙に増やしている。 通綱の2弟山内首藤通忠の系統は、滑氏(滑山内氏)を通称として存続。 通綱の3弟山内首藤通経の系統は、田原氏(田原山内氏)を通称として存続。 通綱の4弟山内首藤通貞の系統は、黒杭氏(黒杭山内氏)を通称として存続。 通資の2弟山内首藤通俊(沙弥浄覚)の系統は多賀村[要曖昧さ回避]で存続し、多賀氏(多賀山内氏)を通称とした。本家の有力庶家として存続し、戦国時代の当主多賀通続の代に毛利氏に仕えている。 通資の3弟山内首藤通顕の系統は、竹内氏(竹内山内氏)を通称として存続。
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