備後山内氏とは? わかりやすく解説

備後山内氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:35 UTC 版)

山内氏」の記事における「備後山内氏」の解説

山内首藤氏1221年承久3年)に蓮華王院領の備後国地毗庄(現広島県庄原市)の地頭になり、さらに1308年延慶1年)に経俊の曾孫山内首藤時通の2男通綱の子山内首藤通資は、領家から地毗庄本郷年貢徴収地頭請により請け負った。通資は、1316年正和5年)に一族率いて所領の地毗庄に下向し、本郷中心に同地勢力築いた。この系統以降、備後山内氏と呼ばれる室町時代には守護山名氏の下で備後守護代務めたが、応仁の乱以後山名氏の力が衰えたのに乗じ備後で独自の勢力築いた戦国時代当主山内直通の孫山内隆通の代には安芸毛利氏仕え江戸時代には長州藩家老として存続した。 経俊の孫宗俊の4男山首藤清俊は、1243年寛元1年)に母熊から熊野山相模国愛甲庄・上総国畔蒜南北領主職、備中国穂太庄預所下司職譲渡され一族としての所領一挙に増やしている。 通綱の2弟山内首藤通忠の系統は、滑氏(滑山内氏)を通称として存続。 通綱の3弟山内首藤通経系統は、田原氏(田原山内氏)を通称として存続。 通綱の4弟山内首藤通貞の系統は、黒杭氏(黒杭山内氏)を通称として存続。 通資の2弟山内首藤通俊(沙弥浄覚)の系統多賀村[要曖昧さ回避]で存続し多賀氏多賀山内氏)を通称とした。本家の有力庶家として存続し戦国時代当主多賀通続の代に毛利氏仕えている。 通資の3弟山内首藤通顕の系統は、竹内氏竹内山内氏)を通称として存続

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