備後国へ下向、国人領主として成長する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 15:33 UTC 版)
「三吉氏」の記事における「備後国へ下向、国人領主として成長する」の解説
12世紀に兼範が近江国から備後国三吉郷に下向、その子・兼宗(かねむね)が三吉大夫と称し、三吉氏の初代となった。比叡尾山城を拠点とし、国人領主として備後国内で勢力を拡大していった。 鎌倉幕府滅亡の頃、三吉氏は後醍醐天皇に味方し、後に中国地方に下ってきた足利直冬に従った。直冬の勢力が衰えると、近隣の有力大名である山名氏や大内氏、尼子氏の下を転々とした。戦国時代の当主・三吉致高(むねたか/おきたか)は、天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いの前哨戦である宍戸氏の祝屋城攻撃、そして本戦である吉田郡山城の戦いにも尼子方として参戦した。その後は大内方に転じ、月山富田城の戦いにも大内方として参戦した。そのため天文13年(1544年)には尼子氏の攻撃を受けたが、毛利氏の援軍を受けて撃退した(布野崩れ)。
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