備後国を巡る攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:32 UTC 版)
1558年、尼子氏支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始、その時晴久は備前の浦上氏を攻撃していたが、直ぐに美作東部から兵を引き返し、備後へ援軍に駆けつけた。しかし、備後北部の尼子方国人衆は駆逐されており、尼子軍は備後より撤退。備後庄原から南部の支配権を喪失した。 備後は、本国である出雲にも近い事から、尼子氏の影響力が強い所であったが、元就のこの備後侵攻によって山陽方面への影響力を喪失してしまう。 この山陽方面での影響力喪失などが、後々に次代の義久の時代に暗い影を落とすことになる。
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