竹内氏
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竹内(たけのうち)氏が記録上はっきりと現れるのは鶴田城主垪和為長の子竹内善十郎為能からで、為長の兄弟為就が杉山氏を称し、両氏は緊密な関係を保った。垪和一党が毛利方として勢力を拡張した頃から、垪和武士団の代表を務めていたのは専ら竹内・杉山氏である。 天文元年(1532年)、竹内久盛が竹内流を開眼、垪和郷陥落後、子の竹内久勝が全国を武者修行し名声を確立。京と垪和双方を基点に技を広め、日本柔術の祖となる。 竹内氏の系図では、室町幕府の執奏で堂上家に列せられた清和源氏義光流の京都竹内氏(竹内家)から、竹内重治のとき別れた庶流が垪和竹内氏とされており、江戸時代から明治時代にかけて両家は交流を持ち、家系を一体化して垪和竹内氏も士族に編入された。 弘化4年(1847年)京都の堂上公卿竹内惟賢からの沙汰で、竹内杉山両家の代表は上洛し、竹内邸で竹内流古武道宗家竹内久親が江戸幕府に提出した『日下開山竹内系図江戸書上』の控と『京都公卿竹内家系譜』を引き合わせ、垪和の竹内杉山両家は、公卿竹内家の分家であることを確認、同時に惟賢自身が垪和竹内一族を訪問した。 惟賢は明治維新(1867年)では華族となり子爵に序せられる。 1893年(明治26年)、鶴田竹内家では、京都子爵家を訪ねて古記録を照会し、両家先祖は同一であるとし、鶴田竹内一族の従来の家紋抱き茗荷を京都竹内子爵家の家紋笹龍胆に改める。同年7月、角石谷村の竹内杉山両家は竹内子爵家の同族であるということから岡山県士族に編入。 1900年(明治33年)春、竹内惟忠子爵は垪和鶴田を訪れ、竹内杉山一族が款待。 1901年(明治34年)7月6日、境村竹内新平・才三郎他四戸が竹内子爵一族の故を以て岡山県士族に編入。
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