赤松氏系赤木氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 05:25 UTC 版)
村上源氏赤松氏系統の赤木氏は、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の変の折に、当時の将軍である足利義教を播磨国の守護大名・武将である赤松満祐が暗殺したことに端を発する。時の将軍を暗殺したことにより(嘉吉の乱)、赤松氏の一族は各地に逃亡することになり、その内美作方面に逃亡して土着した一派が苗字を変え、赤木氏を称したとされる。 この系統の赤木氏の始祖は赤木越中守直家とされており、その子孫である赤木丹波守家実の代までは出雲国小山城に居住したが、家実の代で伯耆に移った。家実の子である赤木八郎家久は伯耆から美作に移った。その後、一族は赤木家則、家則の子である赤木弥三郎と続いた。美作の赤木家則と赤木弥三郎は武功を挙げたと伝わっている。また、弥三郎は毛利氏方の武家で、美作国垪和郷を本拠とした垪和氏(竹内氏)に仕えており、美作高城における合戦で宇喜多氏の軍勢と交戦し、1580年に討ち死にしたと伝わる この赤松氏系統の赤木氏の後裔は岡山県や広島県東部(旧備後国)に多い。
※この「赤松氏系赤木氏」の解説は、「赤木氏」の解説の一部です。
「赤松氏系赤木氏」を含む「赤木氏」の記事については、「赤木氏」の概要を参照ください。
- 赤松氏系赤木氏のページへのリンク