赤松氏討伐と応仁の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:33 UTC 版)
家督を継いだ・山名持豊(宗全)は1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で第6代将軍・足利義教が赤松満祐によって暗殺されると、同1441年(嘉吉元年)、赤松氏討伐の総大将として大功を挙げた。この功績によって山名氏は、新たに備前・美作・播磨の守護職を与えられ、再び全盛期を築き上げた。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}宗全は、城之崎城・九日市城を詰め城とする九日市(豊岡市九日市)の丘陵に広大な守護所を構えたとされている[要出典]。 だが、先の家督継承の経緯から持豊は幕府に反抗的な態度を取り、享徳3年(1454年)には第8代将軍・足利義政が持豊討伐の命を下すが、管領・細川勝元の奔走で持豊が一時隠退することで事態を収拾させた。 しかし、幕府に復帰した宗全は幕政の主導権をめぐって細川勝元と対立する。また、足利将軍家や畠山氏、斯波氏などの後継者争いなど複雑な事情も重なった結果、1467年(応仁元年)には応仁の乱の勃発に至った。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である1473年(文明5年)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。 宗全の嫡男・山名教豊は山名氏を継承したものの、父に先立ち陣没した。教豊の弟のうち、山名勝豊は山名氏一族が継承していた因幡守護に任じられ因幡山名氏を興し、山名是豊は家督をめぐり父と対立したため細川勝元の陣に加わり、東軍より安芸・備後の守護職に任じられ備後山名氏の祖となる。
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