赤松氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 16:48 UTC 版)
滝山城の築城年代は定かではないが、文献上の初見は『正慶乱離志』で、 「 正慶2年(1333年)4月より下向人申云、3月17日赤松入道京都七条まで打ちいるといえどもおしかえすべく、帝は六派羅の北殿に御入云々、赤松は本の生田の布引の城にこもる云々、その後八幡に陣を取る云々。 」 —正慶乱離志 とあり、この「生田の布引の城」と記載されているのが滝山城の事である。 元弘3年(1333年)1月11日、大塔宮護良親王の命を受けた赤松則村(円心)は白旗城に挙兵して麻耶山城まで出軍し、千早城に立て籠もる楠木正成を援護し(元弘の乱)、自らも京都を狙っていた。同年2月11日に麻耶山城に六派軍をおびき寄せ、側面攻撃し六派軍を敗退(六波羅の戦い)させた。赤松軍はこれを好機と捉え、京都近くまで攻め上ったが、今度は逆に六派軍に反撃され滝山城に立て籠もったようである。赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃して六派軍を攻撃したがまたしても敗れた。赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六派軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たした。 その後、滝山城の城主は円心の息子赤松範資になったり、後醍醐天皇方に渡ったり、再び範資の息子赤松光範に戻ったりした。 更にその後、滝山城や多々部城は南朝軍に何度か攻められたが、城の守りが堅く河内に引き返したと伝えられる。永徳元年(1381年)10月3日に赤松光範が死去すると、文明年間には赤松氏の家臣であった井上成陰が城主になっていたようだが、滝山城がどのようになったかそれ以外の詳細は不明で、一旦廃城になっていた可能性もある。
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