赤松氏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
脱出した教康は義父の大河内顕雅を頼るが拒まれて自害し、満祐が擁立した義尊も討たれている。満祐の弟の義雅は一族である満政の陣に出頭して切腹し、息子千代丸(後の赤松時勝)の育成を託した。またもう一人の弟である則繁は九州に逃亡し、一時は朝鮮に渡るなど活躍したが文安5年(1448年)に河内で討たれている。享徳3年(1454年)に満祐の甥の赤松則尚が赤松氏再興を掲げて播磨に侵入したが、敗れて持豊に討ち取られた。分家の有馬氏出身の有馬持家・元家父子は8代将軍足利義政の側近として活動していたが、それぞれ満政、則尚の反乱に連座して隠居に追い込まれた。 嘉吉3年(144年)9月、後南朝勢力が御所に乱入し、三種の神器のうちの神璽が奪われる事件が発生した(禁闕の変)。赤松氏の遺臣は後南朝勢力に潜入し、長禄元年(1457年)12月に神璽を奪還して後南朝の後裔を殺害した(長禄の変)。この功により時勝の子赤松政則は赤松氏の再興を認められ、加賀半国守護に任ぜられた。応仁の乱では旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を奪還した。
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