三国守護
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寿永元年(1182年)10月17日、生後二ヶ月余りの頼朝嫡子である源頼家が産所から将軍邸へと入る際の輿を担ぎ、翌々年6月23日には皇族の落胤を称し咎められた女を阿波で預かる。その後、淡路、阿波、土佐の守護に任じられる。 文治3年(1187年)11月11日、朝廷に馬を貢ぐ使者を務め、建久元年(1190年)11月11日、大納言に就任した頼朝の石清水八幡宮への参拝に随行する。建久3年(1192年)7月26日に、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開き、同年9月17日までに経高は中務丞に任ぜられている。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられ、建久5年(1194年)12月26日の永福寺供養、翌年3月12日の東大寺供養、8月1日の三浦三崎遊覧、8月8日の相模日向山参詣、翌々年5月20日の四天王寺参詣では兄弟らと共に頼朝の将軍家に随行する。 正治元年(1199年)1月に頼朝が没すると、翌年の7月9日に淡路、阿波、土佐の軍を京に集める。その騒動は後鳥羽上皇の怒りに触れ、8月2日に淡路、阿波、土佐三ヶ国の守護職を解任される。翌々年に出家し経蓮と称していた経高は、京での騒動に対する申し開きと、挙兵の初めに平兼隆を討って以来を記した書状を、長男の高重に持たせ幕府へと送る。赦免を得た経高は11月13日に鎌倉へと参じ、京で写した法華経六部を頼朝の月忌に供養し、12月3日の帰京の際には頼家と面会しまず一ヶ国を戻され、その後の会談では往時の忘れ難き話を述べ、独り涙を拭い退き、和田義盛らはこれを聞きまた涙したという。 建仁3年(1203年)10月、近江国の八王子山に拠った比叡山宗徒を攻めよとの勅命を受ける。経高は出家し高野山に在った弟の高綱から兵法の助言を受け、弟の盛綱、甥の重綱(高綱の嫡男)らと共に軍を発し、宗徒らを退散させる。
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