三国守護とは? わかりやすく解説

三国守護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 03:26 UTC 版)

佐々木経高」の記事における「三国守護」の解説

寿永元年1182年10月17日生後ヶ月余り頼朝嫡子である源頼家産所から将軍邸へと入る際の輿を担ぎ翌々年6月23日には皇族落胤称し咎められた女を阿波で預かる。その後淡路阿波土佐守護任じられる文治3年1187年11月11日朝廷に馬を貢ぐ使者務め建久元年1190年11月11日大納言就任した頼朝石清水八幡宮への参拝随行する建久3年1192年7月26日に、頼朝征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府開き同年9月17日までに経高は中務丞に任ぜられている。建久4年1193年9月7日には後白河法皇崩御後荒廃していた御所宿直命じられ建久5年1194年12月26日永福寺供養翌年3月12日東大寺供養8月1日三浦三崎遊覧8月8日相模日向山参詣翌々年5月20日四天王寺参詣では兄弟と共に頼朝将軍家随行する正治元年1199年1月頼朝没すると、翌年7月9日淡路阿波土佐の軍を京に集める。その騒動後鳥羽上皇怒り触れ8月2日淡路阿波土佐三ヶ国の守護職を解任される。翌々年出家し称していた経高は、京での騒動対す申し開きと、挙兵初めに平兼隆討って以来記した書状を、長男の高重に持たせ幕府へと送る。赦免得た経高は11月13日鎌倉へと参じ、京で写した法華経六部頼朝月忌供養し12月3日帰京の際には頼家面会しまず一ヶ国を戻されその後会談では往時忘れ難き話を述べ独り涙を拭い退き和田義盛らはこれを聞きまた涙したという。 建仁3年1203年10月近江国八王子山に拠った比叡山宗徒攻めよとの勅命を受ける。経高は出家し高野山に在った弟の高綱から兵法助言を受け、弟の盛綱、甥の重綱(高綱嫡男)らと共に軍を発し宗徒らを退散させる

※この「三国守護」の解説は、「佐々木経高」の解説の一部です。
「三国守護」を含む「佐々木経高」の記事については、「佐々木経高」の概要を参照ください。

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