赤松氏没落まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/18 14:30 UTC 版)
2代目当主伊光は、南朝方に属した赤松氏範が反乱した際に戦死。3代目当主伊範は、明徳の乱における京都での戦いで戦死。4代目当主伊高は、赤松義雅に従って大和永享の乱鎮圧に参加して戦死。5代目当主貞伊は、嘉吉の乱で赤松満祐に従って敗北し、伊勢国に逃れた後自害した。なお貞伊自害の際には櫛橋氏一族6名もともに自殺している。このように櫛橋氏は代々に渡って赤松氏に従って戦場に命を散らしており、後代赤松政則に絶賛を受けている。 この中で特に3代・伊範は浦上氏とともに赤松氏の奉行人として頭角を現しており、また4代・伊高は東播磨目代となって別所氏(東播磨守護代)とともに東播磨支配で重きをなしたほか、播磨・備前・美作三国の出納役を務めるなど家中で重きをなした。 また伊範は討伐された赤松家則(赤松氏範の子)の遺児を養育し、兄・祐則は櫛橋氏を、弟・家全は志方氏を称するようになった。赤松氏支流とされる櫛橋氏とはこの流れを指すのだが、資料によっては櫛橋氏宗家と赤松支流櫛橋氏を混同した記述が散見される。「観音寺文書」では櫛橋氏宗家が志方を治める豪族であったとしており発給文書もその名で散見できるが、赤松支流櫛橋氏の活動は先述の混同もあってよく分かっていない。
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