赤松氏討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
その後細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪した。さらには管領細川持之の軍兵からも押し買いを行うトラブルをおこし、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件が起こっている。 7月初旬に山名教清が伯耆から美作へ侵入した。同地の国人はほとんど抵抗せず、美作は山名勢に制圧された。 細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。 持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬へ向かった。 8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請した。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は将軍家の家臣であるから討つのに綸旨は必要ないとと反対する議論もあった。しかし後花園天皇は積極的であり、自ら綸旨を添削してこれを認め、正親町三条実雅を介して公人奉行である飯尾為種に手渡された(『建内記』)。また、村上源氏の久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をしていたが、幕府は何の対策を打ち出せなかった。11月2日に清通は源氏長者に補任されている(『公卿補任』)。 8月19日、摂津の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親(細川成春の父)は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した(人丸塚の戦い)。 8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。 9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。
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