赤入道と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:08 UTC 版)
市川裕士は将軍・足利義教の意向によって次兄の山名持熙が後継者に立てられかけ、それを実力で排除することで家督を継承するという持豊の体験が、室町殿(将軍)や幕府の影響力を排除して実力で勢力を拡大することを志向するきっかけになったとする。また、市川は別の著作で、細川氏は管領職など公的権力を利用して勢力拡大につなげることが出来たが山名氏にはそれがなく、持豊は諸大名との関係形成や分国における所領の押領など私的な部分を用いた拡大策を取らざるを得なかった。それは公的権力に干渉されない山名氏及び持豊の「強み」であったが、それは反対に足利義政や細川氏・畠山氏・赤松氏ら諸大名の警戒心を招き、応仁の乱をきっかけに一族の分裂画策などの弱体化策が行われた結果、持豊の死後の山名氏は急激に衰退していった。すなわち、「強み」と「限界」は表裏一体であったと論じている。 性格は激情・横暴・傲慢とされ、嘉吉の乱で赤松氏討伐に向かうまで部下の兵士が洛中の土倉・質屋を襲撃した事件で管領の細川持之から抗議されたことがある。しかし宗全はのらりくらりとした態度をしたため、激怒した持之が宗全をも攻めようと強硬な態度を見せたため、ようやく陳謝した。この時のことを『建内記』の嘉吉元年7月12日条には「近日の無道・濫吹は只だ山名に在るなり」と記録されている。領国でも荘園や寺社領の横領が絶えず発生し、特に旧赤松領における横領はひどかったという。義政から討伐命令を出されたことなどもあるが、宗全は反省の色を見せずにかえって義政を罵って隠居命令まで出されている。また息子の教豊とも衝突、長禄4年には1年間に2度も対立して教豊が播磨に下向しているほどである(『長禄四年記』)。 心優しい一面もあり、病気の家臣を労わったり、死去した家臣を悼んだりしている。文安元年(1444年)2月17日から23日にかけて宗全は太秦薬師に参籠して家臣の田公入道の病気平癒をした(『康富記』同年2月23日条)。寛正元年(1460年)には父の命日に僧侶を集めて冥福を祈らせていた家臣が死去したことを感じ入ってその家臣を悼んで読経の法会を開いている(『碧山日録』同年7月4日条)。また家臣の八木遠秀が文明元年(1469年)に死去したとき、弥陀の6字をしたためている(『禿尾長柄箒』)。また『応仁記』の信憑性はどうあれ、将軍の足利義政との対立を決意して分国の兵力を動員したとき、垣屋・太田垣ら13人の家臣が上意に背くことの非を説いて諫め、それでも戦うなら我らは出家して高野山に上ると言い出した。それに対して宗全は娘婿の斯波義廉と共に切腹するが、お前たちは留まれと述べた。宗全は家臣を道連れにすることを恐れて言ったのだが、この発言で逆に家臣らは宗全と行動を共にすることを決意したという。 赤入道の渾名は当時から広まっていたようで、一休宗純は顔が赤いことと好戦的な性格から毘沙門天の生まれ変わりと書いている。ただし実際の宗全の肖像がどのようなものかは伝わっておらず、不明である。なお、宗全自身も毘沙門天に特別の想いがあったのか、兵庫県朝来市の鷲原寺に宗全が寄進した毘沙門天像がある。 宗全には政治欲は乏しく、専ら軍人としての性格が強かったという。宗全時代の山名軍は兵力も多くて能力も強く、幕府がたびたび横暴のあった山名軍をそれでも幕府体制の中に組み込んでいったのは強大な軍事力が他の大名を圧倒していたためという。『嘉吉記』では宗全は公式の政務に関与することは少なく、軍事方面に関わるのみだったとしている。実際、侍所頭人の職にあったのも1年余ほどで、以後は幕府の宿老として権勢をふるった。宗全のやり方は数多い子女を他家に嫁ぎあるいは迎えて人脈を拡げて勢力を拡大するというものだった。
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