赤入道とは? わかりやすく解説

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山名宗全

(赤入道 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 04:46 UTC 版)

山名 宗全 / 山名 持豊(やまな そうぜん / やまな もちとよ、応永11年5月29日1404年7月6日〉- 文明5年3月18日1473年4月15日〉)は、室町時代武将守護大名。家系は新田氏庶流山名氏室町幕府四職の家柄で侍所頭人。但馬備後安芸伊賀播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。


注釈

  1. ^ 『但馬村岡山名家譜』では山名師義の娘とされているが、康正2年(1456年)に宗全が但馬で母の十七回忌を行った際に招かれた僧侶が記した『蝉庵稿』では『安清開基無染大姉 山名金吾母 奥州女』と宗全と氏清の官位を記していることから氏清の娘とされる[1]
  2. ^ 政豊に関しては4男とも嫡孫(教豊の子)ともいわれる。教豊は持豊に先立って亡くなっているため、いずれにせよ、持豊の後継者であったことは間違いない[2]
  3. ^ 「豊」の字の由来は不明だが、持豊の子孫にはこの字を用いる者が多数見られ、山名氏の通字の1つと化している。
  4. ^ 『斎藤基恒日記』では「手負人数」として宗全の名があるが、他の記録には見えないため軽傷だったと推測される[7]
  5. ^ 『但馬村岡山名家譜』では宝徳2年(1450年)となっているが、嘉吉2年の小早川家の文書で出家したことが書かれている[13]
  6. ^ 実際、応仁の乱中に勝元は宗全に従う山名政清に代わって是豊を石見守護としている。
  7. ^ ただし自害を試みたというのは噂として流れたとされている(『大乗院寺社雑事記』文明4年5月14日条)[29][30][31]
  8. ^ 『東寺執行日記』には「死去は18日なり。16日に大事にて、18日治定か」とある[37]
  9. ^ 赤入道の記録は『応仁記』に見える。
  10. ^ 『狂雲集』に「山名金吾は鞍馬の毘沙門の化身。鞍馬の多門は赤面顔、利生物に接し人間に現ず、方便門を開けば真実の相あり、業は修羅に属し名は山に属す」とある[51][52]
  11. ^ 「山名金吾攻るとしてならずと云ことなく、戦として勝たずと云事なし、其上大国数多領し、一族子供沢山に持て、諸大名をむこにとり、その身政務にかかはらずありければ、将軍を始め諸大名達、彼が心に背かん事を欲せず、今の世に肩を双ぶる人なくぞ見へし」
  12. ^ 寛正6年に勝元の命令で大内教弘・政弘父子が伊予守護河野教通と合流して河野通春を討つ手筈だったが、教弘父子は逆に通春と手を組んで勝元と対立した。同時期に斯波義廉が畠山義就・宗全と連携しており、大内氏の離反も宗全と図ったとされ、細川派と山名派の対立はこの年から始まったとされる。また、文明4年の和睦交渉の理由について、義廉の地位保全が幕政における山名氏の存続にかかっていたが、その鍵となる関東政策で現地の幕府方が単独で反幕府方の古河公方足利成氏を打ち破って優位に立ったため、幕府優位で成氏との和睦、征伐を望んでいた義廉の存在が無意味となり、勝元との和睦に動いたと推定される[56]

出典

  1. ^ 川岡 2009, pp. 175–176.
  2. ^ 川岡 2009, pp. 179–180.
  3. ^ 『満済准后日記』応永35年4月23日条
  4. ^ 小川 1994, pp. 36–46.
  5. ^ 石田 2008, pp. 16, 19–32.
  6. ^ 市川 2017, pp. 201–202.
  7. ^ 川岡 2009, pp. 44–45.
  8. ^ 小川 1994, pp. 47–53.
  9. ^ 石田 2008, pp. 59–62.
  10. ^ 川岡 2009, pp. 45–47.
  11. ^ 『建内記』嘉吉元年閏9月9日条
  12. ^ 市川 2017, p. 203.
  13. ^ 川岡 2009, pp. 49–50.
  14. ^ 小川 1994, pp. 53, 63–67.
  15. ^ 石田 2008, pp. 72–73, 93, 109–111.
  16. ^ 川岡 2009, pp. 48–49, 60–61.
  17. ^ 小川 1994, pp. 67–72, 132–141.
  18. ^ 石田 2008, pp. 124–125, 129–132, 185–190.
  19. ^ 川岡 2009, pp. 106–124.
  20. ^ 市川 2017, pp. 210–212.
  21. ^ 『大乗院寺社雑事記』文正元年9月13日条
  22. ^ 市川 2017, p. 212.
  23. ^ 小川 1994, pp. 148–170.
  24. ^ 石田 2008, pp. 191–210.
  25. ^ 川岡 2009, pp. 124–128.
  26. ^ 小川 1994, pp. 171–176, 197–201.
  27. ^ 石田 2008, pp. 210–221, 238–241, 244–246, 251–253.
  28. ^ 川岡 2009, pp. 128–142.
  29. ^ 小川 1994, pp. 213–214.
  30. ^ 石田 2008, pp. 261–263.
  31. ^ 川岡 2009, p. 143.
  32. ^ 『大乗院寺社雑事記』文明2年6月13日条
  33. ^ 『大乗院寺社雑事記』文明2年8月12日条
  34. ^ 小川 1994, pp. 214–215.
  35. ^ a b 川岡 2009, p. 144.
  36. ^ 小川 1994, p. 214.
  37. ^ 川岡 2009, pp. 144–145.
  38. ^ 小川 1994, pp. 216–223, 235–241.
  39. ^ 石田 2008, pp. 265–274.
  40. ^ 川岡 2009, pp. 145–159.
  41. ^ 市川 2017, pp. 202, 206.
  42. ^ 市川裕士 著「山陰山名氏の動向と研究の成果」、市川裕士 編『山陰山名氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻〉、2018年、16-18頁。ISBN 978-4-86403-293-3 
  43. ^ 小川 1994, pp. 53–54.
  44. ^ 川岡 2009, p. 46.
  45. ^ 川岡 2009, p. 55.
  46. ^ 市川 2017, pp. 203–206.
  47. ^ a b 川岡 2009, p. 190.
  48. ^ 川岡 2009, pp. 190–191.
  49. ^ a b 川岡 2009, p. 191.
  50. ^ 小川 1994, pp. 146–147.
  51. ^ 小川 1994, pp. 72–73.
  52. ^ 川岡 2009, p. 187.
  53. ^ 川岡 2009, pp. 188–189.
  54. ^ 小川 1994, pp. 75–77.
  55. ^ 川岡 2009, pp. 5, 189.
  56. ^ 石田 2008, pp. 182–196, 225–256, 262–264.


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