赤松氏再興後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/18 14:30 UTC 版)
嘉吉の乱当時、6代目当主則伊はまだ9歳であったため仏門に入っていたが、応仁の乱後に赤松氏が播磨に再興を果たすと守護・赤松政則によって召喚されて還俗した。政則は櫛橋氏歴代の忠烈を称えて奉行職に再任し、則伊は赤松氏重臣として重きをなした。則伊は志方の支配にも取り組んでおり、天神山城、のち志方城を築いてそこを居城とした。 このように櫛橋則伊は播磨国内において重要な武将として活躍したが、以後の活動は不明点が多くなる。7代目当主は伊家だが活動の記録がなく、代わりに櫛橋則高(豊後守)という人物が赤松氏の奉行衆に名を連ねている。8代目当主・伊定も同様に記録がなく、櫛橋氏の当主の記録は戦国時代に入るとやや混乱し、その後織田信長によって志方城が滅ぼされるころの城主が8代目・伊定であったのか、その子の9代目(政伊)であったのかも諸説ある。 戦国後期の櫛橋氏は近隣勢力である別所氏の影響下が強く、別所長治が織田氏から離反するとそれと共に反旗を翻した。しかし間もなく織田軍の攻撃により鎮圧され、その時に播磨櫛橋氏は事実上滅亡した。子孫は伊定の娘櫛橋光の夫であった後の福岡藩祖黒田孝高に養われ、以後は福岡藩士として存続した。 なお滅亡時、赤松氏支流櫛橋氏の当主は櫛橋伊則、志方氏の当主は志方秀尚であったが、特に伊則は志方城主との記述もあり、動向などの詳細は不明。なお伊則と秀尚は兄弟とある。
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