赤松氏の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創設の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。 応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。
※この「赤松氏の隆盛」の解説は、「嘉吉の乱」の解説の一部です。
「赤松氏の隆盛」を含む「嘉吉の乱」の記事については、「嘉吉の乱」の概要を参照ください。
- 赤松氏の隆盛のページへのリンク