備後福田氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 09:20 UTC 版)
建久7年(1196年)、藤原光雅は源頼朝によって芦田川川南6郡を与えられて備後国福田村に居を構え、福田を名字とした。これが藤姓福田氏である。しかし6代・福田光季の時に後醍醐天皇側に味方して、建武3年(1336年)、九州から東上する足利直義の攻撃によって滅亡した。 福田盛次、信次兄弟が建武3年(1336年)の湊川の戦いにおける戦功を賞され、足利尊氏に福田村を所領として与えられた。以後、福田信久・福田盛雅・福田盛長・福田盛国と続き、戦国時代となった弘治元年(1555年)、備後福田氏6代・福田久重の時に隣接する国人の有地氏に居城の利鎌山城を攻められて落城、福田氏は滅亡したとされる。しかし、一族と思われる福田盛雅(上記盛雅とは別人)がこれ以降も備後国利鎌山城を拠点として活動し、後に毛利氏家臣として美作国に進出。宇喜多直家相手に、戦いを繰り広げている。 後に備後福田氏は天正年間の後半に近隣の杉原氏、有地氏ともども転封され、天正19年(1591年)頃の「毛利家八箇国時代分限帳」では、福田少輔七郎が備後国恵蘇郡(現・庄原市)、周防国吉敷郡で軍役高166石を領している。
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