藤原光雅とは? わかりやすく解説

藤原光雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 00:44 UTC 版)

 
藤原光雅
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 久安5年(1149年
死没 正治2年3月9日1200年4月23日
別名 葉室光雅、堀河中納言
官位 正二位権中納言
主君 後白河法皇
氏族 葉室家
父母 父:藤原光頼、母:藤原親隆の娘
兄弟 光方、光定、光雅宗頼藤原宗家
藤原重方の娘
葉室光親藤原顕俊、光宝、光円、大炊御門師経室、典侍、藤原隆房
テンプレートを表示

藤原 光雅(ふじわら の みつまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家権大納言藤原光頼の三男。官位正二位権中納言後白河法皇近臣堀河中納言と号した。葉室光雅とも呼ばれる。

経歴

早くから後白河法皇に近臣として仕える一方、実務能力に優れた事から多方面から起用される。治承2年(1178年)12月に誕生した言仁親王(のちの安徳天皇)の職事となり、法皇と平清盛の対立による治承三年の政変後は清盛の命により新関白近衛基通の執事を務める。法皇と源義仲の対立による法住寺合戦後に松殿師家年預となる。

文治元年(1185年)12月、源頼朝源義経の対立で頼朝追討の院宣を奉じた事により、頼朝の要請により右大弁を解官される。のちに許されて文治2年(1186年)に5月には還任[1]。のちに権中納言[1]

経歴

公卿補任』による

系譜

脚注

  1. ^ a b c d e f g 公卿補任

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原光雅」の関連用語

藤原光雅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原光雅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原光雅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS