難波頼経とは? わかりやすく解説

難波頼経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 13:44 UTC 版)

 
難波 頼経
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 建保4年(1217年)12月
官位 従四位下刑部卿
主君 六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家難波家
父母 父:難波頼輔、母:不詳
兄弟 頼経、兼雲、教尊、藤原経家
正室:源顕雅の娘
宗長飛鳥井雅経、頼教、経長、良平、輔長、経豪、厳海
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難波 頼経(なんば よりつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。藤原頼経とも呼ばれる。藤原北家難波家刑部卿難波頼輔の長男。官位従四位下・刑部卿。難波家3代。

経歴

仁安から治承年間にかけて、壱岐国豊後国国司となる。豊後守在任時においては、知行国主であった父・頼輔の命を受けて同国に下向し、在地豪族の統制に当たる。寿永2年(1183年)に平家が都落ちすると、豊後国人緒方惟栄らに対して院宣に従い平家を追討するよう指示。これを受け惟栄は反平家活動を活発化させ、遂にその勢力を大宰府から駆逐するに至っている。

平家滅亡後は源義経の有力な同盟者となり、惟栄ら豊後国人の勢力を義経方に取り込むための活動に邁進。惟栄が宇佐神宮を焼き討ちした罪を軽減されたのも、彼や義経の工作によるものと言われる。同時に高階泰経後白河院近臣勢力とも結び、義経追討を打ち出す鎌倉幕府に対抗する。

こうした頼経の姿勢は幕府による追及を免れず、文治元年(1185年)12月、任官後間もない刑部卿を解官された上で安房国流罪となる。翌年3月に一旦赦免されて帰京するが、なおも義経支援の姿勢を改めなかったため、文治5年(1189年)3月に再度伊豆国へと配流されている(なお、長男の宗長も同時に解官されている)。

官歴

  • 時期不明;豊後守に任ず[1]
  • 永万2年(1166年)2月1日:壱岐守に任ず[2]
  • 元暦2年(1185年)6月10日:刑部卿に任ず[2]。12月:解官せらる。
  • 建保4年12月(1217年1月-2月):卒去。位階は従四位下。

系譜

  • 父:難波頼輔
  • 母:不詳
  • 妻:源顕雅の娘
    • 長男:難波宗長(1164-1225)
    • 次男:飛鳥井雅経(1170-1221)
  • 生母不詳の子女
    • 男子:難波頼教
    • 男子:難波経長
    • 男子:難波良平
    • 男子:難波輔長
    • 男子:経豪
    • 男子:厳海(1173-1251)

長男・宗長の子孫は難波家、次男・雅経の子孫は飛鳥井家として後世に続き、蹴鞠和歌の道において重きをなしている。

関連作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 尊卑分脈
  2. ^ a b 公卿補任
先代
難波頼輔
難波家当主
3代
次代
難波宗長




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