安土桃山時代以前
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ヤマトタケル(日本武尊)、行基、源頼朝が開湯したとの俗説(開湯伝説)があるが、同時代の記録(碑文や文書)に草津温泉を起想させる内容は見られない。 上州草津の温泉について今日まで伝えられている最古の記録は、戦国時代前期の事柄について当時より後世の人物が記したものである。それは文明4年(1472年)、信州西厳寺住職の招きで浄土真宗本願寺派第8世宗主・蓮如が越前吉崎(現・福井県あわら市吉崎)の吉崎御坊より来草して布教したというものであるが、係る記録は他の記録と年号が食い違っているうえ、後世に記したものであるため、真偽のほどは定かでない(草津温泉温泉観光士講座より抜粋)。ともかくも、史料として既知で最古の例である。
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安土桃山時代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:28 UTC 版)
藤原北家秀郷流の備後山内氏の分家で、山内宗俊の五男俊家を祖と考えていたが、真相については定かではなく有力な資料がないのが現状である。戦国時代、まだ池田恒興や前田利家、柴田勝家や佐々成政が下級武士だったころ、山内盛豊は尾張国守護代の織田氏嫡流の岩倉織田家に家老として仕え、黒田城主でもあった。しかし盛豊は、当時山内氏よりも下位にあった清洲三奉行の一つ、清洲織田家当主織田信長に侵攻され自害して果てた。 盛豊の息子らは裸一貫となって流浪することになるが、山内一豊が信長、のちに豊臣秀吉に仕えて遠江国掛川5万9千石を領する大名となった。 1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に従う。戦後、居城掛川城を率先して提供するなどの功が認められて土佐国を与えられ、土佐藩20万2600石の大藩を成した。俗に「土佐24万石」とも称されるが、元和元年(1615年)、土佐藩が高直しを願い出たものの幕府はこの申告を認めず、朱印状は従来のまま「20万2600石余」であった。
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