安土桃山時代から江戸時代初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 07:56 UTC 版)
「押田氏」の記事における「安土桃山時代から江戸時代初期」の解説
その後、胤定は天正17年(1589年)、北条氏の傘下として北条氏直の対佐竹戦線に従軍するなど、北条氏の戦力として借り出されていたが、その翌年に関白豊臣秀吉による小田原征伐では、千葉重胤に従って小田原湯本口の守備につくなど、20万以上の兵力を有する豊臣方の大軍を相手にするなど、苦況に立たされた。北条方の降伏により、胤定は落命を免れたものの、小田原落城後は自領であった野手村に蟄居し家督を嫡男押田吉正に譲り、前後して当時、下総・上総の地域で急速に力をつけた千葉氏の一門 井田胤徳の娘を迎えることで何とか家運を保った。その後、北条氏の旧領に徳川家康が入部し、吉正は子の押田豊勝とともに徳川氏に召し出された。吉正・豊勝親子は江戸幕府の幕臣となり、大坂冬の陣・夏の陣にも参戦し、吉正は大番頭となり、500石を賜り、豊勝は2代将軍秀忠の小姓に登用された。以後、押田氏は代々、旗本として存続する。
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